日露戦争で日本が勝つことができたのは、このように北極海がアジアとヨーロッパのコミュニケーション(交通)を閉ざし、ロシアに地政学的制約を与えたことが大きかった。 だが、100年前に北極海航路が開通していれば、バルチック艦隊はもっと早く、そしてイギリスの妨害を受けることもなく極東にたどり着くことができたかもしれない。北回りであれば、バルチック艦隊は宗谷海峡と津軽海峡のどちらかを通って日本海に入ることもできたため、連合艦隊は艦隊を二分しなければならなかっただろう。日本の連合艦隊はそれでもバルチック艦隊を打ち破ることができただろうか。
「障壁」から「近道」へ
現在、北極の海氷の融解は地政学的な変化を起こしつつある。地政学の泰斗ニコラス・スパイクマンは、1942年の著作の中で北極海を東西両半球間に存在する「障壁」と呼んだ。スパイクマンは、航空機の登場によって北半球の高緯度地域の戦略的重要性が増したことを指摘したが、その過酷な気候のために北極海が大西洋や太平洋の海上交通路以上に重要となることは当面ないと結論づけている。
軍事面では北極海の上空は戦略爆撃機の航路となり、1957年にソ連が世界初の人工衛星を打ち上げると大陸間弾道弾の飛翔路ともなった。1958年にアメリカの原子力潜水艦が北極海の潜航航行に成功すると、北極海の海中は米ソの潜水艦が暗躍する戦域になった。加えて、今日では地球温暖化によって北極海が解放され、北極は両半球間の「障壁」から「近道」となり、軍事面だけでなく商業的な利用も可能になりつつある。
地政学的変化は、数十年から数世紀という長期的な単位で国際政治に影響を及ぼす。アダム・スミスは『国富論』の中で、クリストファー・コロンブスによる大西洋航路の発見とバスコ・ダ・ガマによるインド洋航路の発見を人類史上最も重要な出来事と述べた。しかし、これらの新航路がそれまでの地中海とシルクロードを中心とする東西交易路に取って代わるには100年近い歳月がかかった。その間、地中海貿易を独占して500年に及ぶ栄華を極めた「水の都」ベネチアは、16世紀の地政学的変化への対応を誤り衰退していった。現在北極で起こりつつある現象も、短期的な動きに惑わされることなく、その長期的な変化の趨勢を見極めることが重要である。
海氷面積、観測史上最小を記録
北極の海氷は、既存のどのモデルが予想するよりも早く融解している。北極海の海氷の面積を1980年代から観測しているアメリカ雪氷データセンターによれば、2000年までは夏期の海氷面積の平均は750万平方キロメートルで、総面積950万平方キロメートルの北極海は夏期でもその8割ほどが氷に覆われていた。しかし、2000年代に入って海氷の縮小が進み、2012年9月、北極の海氷の面積は349万平方キロメートルという観測史上最小を記録した。