――その後、研究の道に進まれることになったわけですが、そのきっかけとなるような本との出会いはありましたか?
川勝氏:それも三木清です。大学は早稲田の政治経済学部に進みましたが、3年が終わり、春休みに帰省したとき、父から「就職はどうする?」と聞かれて、咄嗟に「新聞記者になる」と。たまたま先輩がある新聞社の岡山支局にいたので、新聞社の試験に受かるにはどんな勉強をすればいいか、春休みを利用して、相談に行きました。その先輩から「倉敷に良い美術館があるから、帰りに寄ってみるといい」と薦められて行ったところ、月曜日で休館だった。日も高いので、のんびり各駅停車で京都の実家に帰ることにしました。
その途中、「竜野」という駅を通りましてね。竜野は三木清の郷里。三木清全集の各巻には「月報」という冊子が入っていて、そこに彼の碑が郷里に出来たとあったのをふと思い出し、見に行こうと電車を飛び降りました。人に道を聞きながら歩いていくと、丘の上の、眼下に川をのぞむところに「真実の秋の日照れば専念に心をこめて歩まざらめや」という三木清の歌碑がありました。そこにたたずんでいるうち、胸に熱いものがこみあげてくるのを抑えられなくなりました。その歌との出会いは鮮烈です。
三木清は、治安維持法違反の容疑者をかくまったとして拘留され、戦後間もなく獄中で非業の死を遂げています。享年48歳。私は「ああ、三木さんは何と無念であったことか」と。その無念を晴らなければいけないという思いが、ふつふつと湧いてきて――。そのときに、本当に心底から火柱が立つような「学問をする」と決意しました。
実家に帰ると、父が「平太、どこの新聞社を受けるんだ?」と聞くのをよそに「大学院へ行く」と答えました。父は驚き、反対しましたが、4年になって早々、大学院への特待生試験があって、合格したのです。大学院の授業料は全額免除、しかも返済不要の奨学金がもらえることになり、父に報告したら、「それは非常に名誉なことだ、早稲田に骨をうずめろ」と(笑)、父は早稲田の政経学部の先輩ですから。それからは本格的に学問一筋に邁進というわけです。
――大学時代は、研究者を目指すまではどのような生活を送られていたのですか?
川勝氏:大学に入った頃は学生運動の全盛期です。私は1浪しており、1人の大学生が闘争中に亡くなる事件が起こって、予備校に、そのお母さんを連れた学生運動家がアジ演説をしに来た。横に立っている母親がとても可哀そうで、彼女の息子の命を奪うことになったマルクス主義は絶対許せないと、私は強烈にそのときに思った。
早稲田に入学するや、マルクス主義を論破しなければと『資本論』の英語版(それが一番安かったので)、そしてのちには日本語版(岩波文庫)も読破しました。1年経つと、ひとかどの理論家です。学生運動の活動家と議論すると、私の方がマルクスをよく知っている。それで知らないうちに、全共闘のある団体の議長に祭り上げられたりしてね(笑)。