<津軽三味線の旋律に魅せられた私が、口説節や日本の唄の源が瞽女唄にあることを知って、瞽女を記録してみようと思い立ってから、あっという間に十年が過ぎ去ってしまった。>
<その間、わたしは瞽女を求めて、越後へいったいどれくらい通い続けたことであろう。来る年も来る年も、春も夏も秋も冬も、越後の山野を地図をたよりに歩き続けた。幻の瞽女の話を探し求めつづけてきた。>
<そうしているうちに、私は杉本キクエさんを知れば知るほど、その人柄に打ちのめされ、ひとつの使命感のようなものにさいなまれた。もともとわたしは、民俗学者でもなければ、研究家でもないが、ひとりの画家として、いや、画家であろうがなかろうが、そんなことはどうでもいい、ひとりの人間として、失われつつある瞽女や瞽女宿の人情をしっかりカンバスの上に、記録の上に、とどめておきたいと強く願うようになったのである。>(『斎藤真一さすらい記』)
失われつつあるものを、ひとりの人間として、記録にとどめておきたい。斎藤の、この「使命感のようなもの」に私は強く揺さぶられ、共感した。と同時に、宮本常一の仕事を想起したのである。
「リュックの中に、テープ、画帖、地図、それに着替えと若干の食糧」を詰め、瞽女たちの旅荷とほぼ同じ15キロを背負って、瞽女宿を巡り歩いた斎藤真一。その軌跡は、宮本常一の旅路に重なった。
「宮本流の方法」で歴史を描きだす
本屋で探すと、奇遇にも、世に出ていなかった原稿がまとめられ、『飢餓からの脱出』として刊行されていた。
編者の田村善次郎氏によると、宮本の「飢餓からの脱出」の執筆時期は明確ではないが、1968年以降だろうと推測される。原稿用紙に全部で498枚あったが、「少なくとも、後200枚くらいは書く予定であったのではないか」という。
全体を通して、「宮本流の方法」、すなわち、「古文書等の文献史料と永年にわたる広範なフィールドワークによって得た実感のともなう伝承資料を同等のものとして対比することによって歴史を描こうとする試み」が明確に読みとれる、と田村氏はあとがきに書いている。
私たちが教育課程で習う日本の歴史は、史料に基づくがゆえに、表舞台に立つ者の視点に偏りがちである。しかし、記録されなかった歴史を丹念に掘り起こし、光を当てていく仕事もまた重要であり、その仕事は、くまなく歩き、聞き書きするフィールドワークによってしか成し得ない。