そして、西欧文明批判などを経て到達したのが「聖訓奉体」(天皇の示す教訓に従って活動すること)であった。それをまとめたのが「極秘 皇国維新法案 前編」であった。改造法案を脱し天皇主義を強く打ち出したものだった。
大岸と二・二六中核者の距離
この和歌山・大岸とそれに近い転向者、中村義明の雑誌『皇魂』を中心にしたグループと雑誌『核心』に依拠する西田税らの青年将校グループは対立する。こうした中、相沢中佐の永田鉄山軍務局長斬殺事件が起きる。
これにより大岸・西田の関係の修復が見られた。しかし、35年の末ごろに大岸が西田宅を訪れた時、栗原安秀中尉は「彼をあてこするような発言をして去って行った」という。二・二六事件の中核者と大岸との間には距離があったのである。
36年2月、大阪で演習に参加していた大岸は二・二六事件の突発を知る。大岸は『蹶起趣意書』は国体に対する認識不足があると見たが、大岸も収監され、不起訴になる。だが、結局この年末予備役に入ることになるのである。
この退役後・戦後の大岸については、三島由紀夫が「バルザックを思わせる」と評した傑作、末松の『私の昭和史』(中央公論新社)に詳しい。末松の『私の昭和史』によると、大岸は、戦後は北の評価を改め、東久邇宮内閣へのアドバイスに際しては改造法案を使っている。
これまでその軌跡が明らかでなかった大岸頼好について、その遺族などへのインタビューや、資料の提供を受けた初めての本格的研究である。これまでの研究もよく咀嚼された傑出した成果といえよう。著者の今後の研究にさらに期待したい。