本書は関東大震災についての優れた研究書だが、近代日本政治史・暗殺史研究の視点からいって意義が特に大きかったのは、朝鮮独立運動結社・義烈団についての研究(第4章)である。
義烈団は1919年11月、金元鳳をリーダーとして結成された戦闘的集団である。20年、第一次暗殺・破壊計画が始められ、9月に釜山警察署襲撃事件、12月に密陽警察署襲撃事件、21年9月の朝鮮総督府襲撃事件と続いた。
22年3月、上海で田中義一前陸相を襲撃し、米国人女性が1人死亡、英国人が1人重傷、中国人巡査1人・苦力2人が負傷した。米国の駐中国大使シュアマンは、朝鮮人独立党の手段を世界のいかなる国も賛成しないと批判したが、義烈団はなお第二次暗殺・破壊計画を実行する。資金40万ルーブルは19年末頃レーニンから得た高麗共産党の資金であった。
23年1月、警察署内に爆弾を投げ込み屋根や窓ガラスを破壊した鍾路警察署爆弾事件を起こし、犯人と目された金相玉は警官隊と激しい銃撃戦の末死亡した。3月には安東県と新義州で大量の爆弾・拳銃が押収され、8月21日に主犯の警部黄鈺らに懲役10年の判決が下される(黄鈺の真意は不明で『密偵』として映画化された)。
そして、誤報と金元鳳の攪乱工作双方のため、義烈団の内地への潜入報道がさまざまに行われた。すなわち、23年春以降、義烈団員が東京、大阪、神戸などの大都市、さらに台湾に潜入していると朝鮮・日本の新聞に報じられ、台湾では標的が行啓した皇太子とされ政府を慌てさせた。
現代韓国の研究では、義烈団は23年下半期、中国東北部・京城・東京の3カ所で同時多発的大規模破壊工作を計画していた。それは天皇暗殺を視野に入れた画期的なもので政府転覆の可能性があったとしている。