軍事史の専門誌『軍事史学』の青年将校運動の特集である。間違いの多い昭和軍人ものが雑誌や新書に溢れている中、読者にはこちらの方がはるかに有益となろう。
ここでは福家崇洋の「大岸頼好と国家改造運動」を取り上げることにしたい。
大岸は高知県の生まれ、中学校・広島陸軍幼年学校などを経て陸軍士官学校卒業。少尉に任官したが、兵隊の家庭の厳しい事情を知り、思想・社会問題の方向に走った。しかし、病気療養中に「マルクス変じて本居宣長になった」と言って笑っていたという思想的変化が起きる。1925年、「宇垣軍縮」により大岸の第52連隊は廃止され、軍縮と思想・社会問題が深刻化する中、後の陸軍青年将校運動の中心人物・末松太平らと出会う。その頃の大岸の愛読書はホイットマン『詩集 草の葉』、メーテルリンク、ブレイクであった。
またこの頃、大岸は大川周明らの『月刊日本』に接し、その後、ペンネームで同誌に「全日本的輪中意識」あるいは「軍隊の社会化と社会の軍隊化」などの原稿を発表した。30年には「兵農分離亡国論」を書き、雑誌『兵火』を出した。『兵火』では「農民及労働者の爆発を一挙に革命過程に摂取する方案」などが提案されている。
『兵火』の運動は弾圧されたが、憲兵隊に調べられた末松は憲兵に「大岸中尉の書いたものは兵火に限らず、用語が共産党と、ちっとも変りませんね」と言われた。その後31年8月、後の血盟団、五・一五事件、二・二六事件の中心メンバーが集まった郷詩会の会合に参加した。
そうした中、大岸は、青年将校運動に重要な影響力を持ってきた北一輝の『日本改造法案大綱』を相対化する傾向を持つ「皇政維新法案大綱」を執筆した。その後、十月事件を経て和歌山61連隊勤務となる。そこで大岸は「軍内融和一致」に取り組む。