でもずっと「美しい」とだけ言いつづけてきた人たちに違和感を覚えるのは、技術は進歩しているということなんです。何十年も「自然に委ねたほうが合理的だ」だけで通用するほど甘くはない。技術の側にものすごいイノベーションがあることで、自然の美は常に問われているんです。自然と技術の往復をしながら、それでも美を語りたいし、探したい。
植物工場の合理性を賞賛する声も、有機農業の美しさを語るだけの言葉も、僕には刺さらなくなってしまったんです。もっと刺さる言葉を打ち出すことには僕もまだ成功していないけど、それは実践のなかで語る人間にとっては重要な課題だと思っています。
――この本の農薬や有機についての記述をめぐって、なにか反響はありましたか?
久松:いまのところあまりないんですよね。仕事や経営一般の話として読んでくださる方がとても多いんです。書き手としては未熟ですけど、良い意味での抽象化には成功したのかな、と嬉しく思っています。
農薬などについての記述は、けっこう脇が甘いと思うんですよ。でもまだ批判はないですね。まだファンタジー側の人たちには届いていないのかもしれません。
――あるいは、「久松農園のような少量多品種農家だけで日本農業全般は語れない」といった批判もありうると思います。「TPPは僕にとっては重要ではない」とのことでしたが、それはTPP参加によって国内市場に入ってくるかもしれない野菜は久松農園にとって競合ではない、というお考えからでしょうか?
久松:それもありますが、実はもっとチャンスがあるのは僕らのような少量多品種の「変態」農家ではなく、今までのコモディティを続けるだけの農家でもなくて、「よりコモディティを徹底した農家」なのだと僕は思っています。
たとえばアメリカの大型スーパーに行くと、長期間店頭に置かれても腐らない硬くて未熟なイチゴといったものが安価で大量に売られています。いま国内で普通に流通している野菜や果物の質を保って、いまよりもオペレーションを徹底して生産コストを下げられれば、そこに市場のボリュームゾーンがあるはずなんです。