でも言語化できることが、自分の生き残る唯一の道なんだと思うようになりました。センスもないし、寝ないで働き続ける根性も僕にはありません。初めての仕事でもぱっと見でこなしてしまう人たちが周りにたくさんいたからこそ、とにかく言語化して誰でもわかる形に仕事を整理していく力が身についたんだと思います。弱者の戦略なんですよ。
センスかガッツがないとダメだと散々言われてきましたが、僕にはどちらもない。ということは第三の要素があるはずだとある方に言われましたが、それは僕にとっては言語化だったんでしょう。誰にでも何かしらの第三の要素はあるはずだから、こんな僕でもなんとかできるということは救いになるんじゃないかな。
――言語化してスタッフとノウハウを共有すること、あるいは器用な人たちが無前提に受け入れて続けている方法もひとつひとつ実践のなかで検証していくことが、いまの久松農園のベースになっているのですね。
久松:イチローが日米通算4000本安打を達成したときの会見で、「8000回以上も悔しい思いに向き合ってきたことを誇りに思う」と言っていましたね。それはどんなことでもすぐにできてしまうスーパーマンの言葉ではないと思うんです。農業も、とくに僕らがやっているスタイルは打率が低い。納得のいく野菜をいかにして作るか、その打率を少しでも上げることに熱くなれるんです。同じ気持ちで打席に立ち続けることを誇りに思いたいんですね。
とはいえ、植物工場的な管理志向は僕にはないんです。それが悪いことなわけじゃない。でもグッとこない。ここは合理性を超えた好みの問題ですね。
――合理性はしっかりフォローしながらも、合理性だけでは語れないものが農業にはあるし、そうでなければやる意味がないという久松さんの姿勢が、この本をユニークなものにしていると感じました。久松さんご自身が安全性を理解しながらも農薬を使わない理由が、ロジックを尽くして説明されながらも、最後は「もともと生き物が持っている力を上手に利用するところに美しさを感じます」、「手触り感のある技術に美しさを感じる」と書かれていますね。
久松:それは僕が憧れたかつての有機農業も同じなんです。数学者が数式を「美しい」と表現するように、そのほうが美しいから、に尽きてしまう。