「個人競技よりもチームスポーツの方がコミュニケーションが必要だろうという父の考えのもと、小学1年生の時から野球を始めました。最初は言いたいことが上手く伝わらなくて気持ちがすれ違ったり、誤解を生んだりしましたが、たくさん練習して、いっしょに試合をしているうちにコミュニケーションが上手くとれるようになって、理解し合えるようになっていきました」
奥寺渉は両親と妹の4人家族の長男として東京の大森に生まれた。
不運なことに2歳の時におたふく風邪の後遺症で聴覚を失い、家族で千葉に移り住んで筑波大学附属聴覚特別支援学校(筑波大学附属聾学校)に通った。そこで発音等のコミュニケーションの基本を学んだ後、小学校に進学するタイミングで再び大森に帰ってきた。
大きなハンデを負った息子にコミュニケーション能力を高める場として考えたのが野球だった。父親はあえて意思疎通が重要なチームスポーツを選んだのである。幼かった奥寺少年には知る由もないだろうが、父親の言葉には深くて大きな意味があった。このときの選択が奥寺の人生の基礎を作ったはずだ。
小学生の頃の奥寺は痩せていて、ひょろひょろと背が高かった。ポジションはピッチャー。夏の甲子園が憧れだった。中学に上がると同時に野球部に入部するが、先輩たちとの上下関係に悩んだ。そんな時に地域の少年野球チームから声を掛けられ「こっちの方が成長できるかもしれない」と中学の野球部は退部した。
監督は鬼のように怖く、優しかった。奥寺は厳しく仕込まれて中学3年ではキャプテンを務めた。
「監督はおどおどしていたような僕を変えたいと思っていたんです。親身になってしごいてくれました(笑)。一番叱られたのが僕だったので、だんだんと図太くなっていきました」
練習はハードで、途中何度もくじけそうになった。しかし「一度自分は野球部をやめている。ここでやめたら、自分はこの先ずっとダメになってしまう。だから、絶対にやめない」と踏ん張った。
その監督とは今でも信頼関係で結ばれていて、奥寺は「僕の人生を変えた人」と言う。
野球少年だった奥寺は、その一方でとても勉強好きな中学生でもあった。
高校から始めたアメフト
一瞬で嵌ったあの感触
早稲田大学高等学院に進学した奥寺はアメリカンフットボール部に入部した。