2024年4月25日(木)

オトナの教養 週末の一冊

2013年12月20日

 しかし牧原氏の研究によれば、欧米流の立憲政治や代議制を日本に輸入しようとしたのは運動の中でも上層部の、ごくごく一部のインテリ指導者だけであって、一般民衆の世界観はまったくそうではなかったと。運動に参加したとはいっても庶民の方は「客分」意識で、国民主権という発想は特になく、とにかく統治者は自分たちの生活を安定させてくれれば誰でもいいと思っていた。江戸時代の「お代官様をもうちょっといい人に変えてくれ」と大して変わらないのです。そして、明治政府は市場経済の導入を強行してそれまでの村の暮らしを破壊し、彼らの怨みを買っていたから、実は全然別の論理なのに「反政府」の一点だけで、運動の指導者と民衆は共鳴した。すごくショッキングな歴史像でしたね。

 しかし、大学で教えるようになって気づいたのは、いまの学生にはこの話だけをしても伝わらないということなんですね。なぜなら、私の世代までなら通用した「自由民権運動は後に戦後民主主義の礎にもなるような、立派な運動だとされてきた」という文脈を、彼らは共有していないから。高校でもそういう熱いストーリーなんか抜きで、板垣退助が自由党、大隈重信は改進党みたいな、単語の羅列としてしか教わっていないみたいですね。つまり歴史研究に基づいてひっくり返すべき「既存のイメージ」自体が、もはや存在していない。

――こうして、文脈を共有していない人と対話する技術が教養だ、という最初の話題に戻ってきたわけですね。最後に改めて、読者へのメッセージをお伝えください。

與那覇氏:自分にとって当たり前の前提が、相手にとっては当たり前ではないかもしれない。さあどうする? というときに、大事なことはふたつあると思うんです。ひとつは、それまで自分が無意識に前提としてきた事柄について、それは本当なのか? いつからそんな前提があったんだ? と突き詰めて考えてみること。いわば自己相対化ですね。今回の『日本人はなぜ存在するか』は、さまざまな学問分野の紹介に絡めつつ、そうやって「日本人」の自明性を再検討するプロセスが書かれています。

 しかし自己相対化というのは、それだけだと「ひとりボケツッコミ」になってしまうところがあって、自分のことばっかり振り返っていても結局相手との対話が始まらないというケースもあるんですね。だって、延々と「ぼくは自分を相対化するためにこんなに深く考えなおしているんだ」みたいな話ばかり聞かされたら、「…この自意識過剰な人、なんなの」としか思えないでしょう。そういう時は新しい文脈の創造、つまり自分の側から「ひとまずはこういう文脈に乗って、話してみませんか」と切り出すことも大切。『中国化する日本』の方はこちらで、とにかく「中国化vs江戸時代化」の構図で全部考えてみよう! と思いきることで、民権運動に参加した民衆は「近代化ではなく江戸時代に戻したがっていた」というストーリーをつけて、学生にも歴史研究の魅力を共有してもらおうとしました。

 自分は本ごとに文体というかキャラが違うと言われることがあるのですが、そういう意味では両者はワンセットの関係にあるので、どちらも楽しんでいただけたら嬉しいですね。

與那覇潤(よなは・じゅん)
1979年生まれ。東京大学教養学部超域文化科学科卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。現在、愛知県立大学日本文化学部准教授、専門は日本近現代史。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、『中国化する日本』(文藝春秋)、近著(共著)に『日本の起源』(太田出版)、『史論の復権』(新潮社)などがある。


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