「3カ月間、お婆さんと2人暮らしをしたおかげで嫌でもフランス語が喋られるようになった」。言葉が使えるようになると、せっかくファッションの都パリに来ているのだから「ショップで働いてみたい」と、婦人服洋服店の子として育った山田の血が騒ぎだした。「それしか手段がなかった」と、山田は片っ端からショップに手紙を書いた。その熱意が買われ、パリにあるグッチで働くことができた。
帰国後、就職するにあたって「いずれは、ファッション業界に」という思いを持ちながらも、あえてファッションとは全く違う世界を選んだ。実家の婦人服業界で「落ちる一方の業界はつぶさに見てきた」。それならば、「伸び続けている業界とはどのようなものなのか見てみたい」。
ソフトバンクの広告会社を就職先に選んだ。ここで猛烈に働き、4年で担当部長にまで昇進した。「営業力、マネジメント能力を付けることができたし、年齢の違う人たちとも渡り合えるコミュニケーションスキルを高めることができた」。
山田は、次のステップに進んだ。ファッション通販サイト「ファッションウォーカー」を展開する事業会社へ転職した。ここでは「洋服のフロー(流通構造)を学ぶことができた」。同時に、疲弊した日本の縫製業界を目の当たりにした。
日本の縫製業を守るためにはどうしたらいいのか。山田が考えたのは、作り手と使い手を直接つなぐことだった。「工場、商社、メーカー、卸、ショップ、消費者と、工場は6階層のなかで一番下」。ならば、中間業者をカットすればいい。工場のブランドで商品を作り、自分が直接消費者に届ける。このビジネスプランで起業することを決意した。
最初に手がけたのは、地元の熊本県人吉市でワイシャツ工場を運営する「HITOYOSHI」。世界74ブランドのシャツを製造するほどの工場であるにもかかわらず、09年親会社が破綻したことで事業継続の危機に陥った。「技術と雇用を守りたい」と、工場の経営陣が地元銀行の支援を受けて自社株買いを行い、OEM(相手先ブランド名製造)の受注で事業を継続していた。
山田は「一緒に世界を代表するファクトリーブランドを作りましょう」と、HITOYOSHIに持ちかけた。工場からすれば、それまでのお客さんと競合になるため、自社ブランドをおいそれと展開しづらい。そこで「Factelier(ファクトリエ)」というブランドを新たに作り、「Factelier by HITOYOSHI」とすることで、発注者はファクトリエであるという体裁を整えた。何度も説得したうえで、やっと了承を得ることができた。
HITOYOSHIの工場長である竹長一幸は「やっていなかったインターネットによる販売に加えて、中抜きによる収入の増と、自社ブランド生産による社員のモチベーションアップにつながった」と話す。