4月9日付の豪オーストラリアン紙社説は、冒頭で、日豪関係の歴史に触れています。1951年、メンジーズ豪首相は、日本との関係を発展させるため、戦争捕虜の対日賠償請求権を放棄したこと、1957年、キャンベラで初の日豪経済協定に署名したのが、安倍総理の祖父、岸信介総理だったこと、そして、1960年代半ばまでには、日本が、英国を抜いて、豪州の最大の輸出先になったこと、についてです。
対インド関係では、しばしば岸・ネルー関係が想起されるように、ここでは岸・メンジーズ関係が言及されています。
これは単に、岸・安倍の血縁関係と言うだけのことではないのかもしれません。60年安保で、アイゼンハワー訪日がキャンセルされ、岸内閣が退陣したことは、日本の政治史に一時期を画したものでした。60年安保直後、年配の自民党議員たちは、池田内閣の「低姿勢」(憲法改正など左翼を刺激する、岸内閣の保守的政策推進をやめること)を憤っていました。その政治的「低姿勢」は佐藤内閣、大平内閣でも継承されました。
中曽根内閣はこれを変える意図はありましたが、側近にまだ戦後左翼迎合の傾向が強く実現しませんでした。
それが、岸失脚以来半世紀を経て、第一次、第二次安倍内閣でやっと克服されつつある、という政治史の判断はそう間違ってはいないと思います。
さらに言えば、インド洋、大洋州に対する、岸の政策は、日英同盟華やかなりし頃、英国が、ドイツの脅威に備えるために、英海軍を極東から引き揚げ、アジア・太平洋・インド洋を、豪州、インドの安全も含め、日本帝国海軍に全く任せた時代もあった過去の戦略的環境にも遡るのかもしれません。
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