2026年11月1日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2026年11月1日

 今回は小牧・長久手の戦いから、と前回『豊臣兄弟!を“勝利”に導いた生野銀山マネー…山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いを支えた経済力、築いた物流網と「シルバー共栄経済圏」の実像』で予告したが、その前にちょっと前回も触れた柴田勝家の北庄城の瓦に用いられた笏谷石について書き足しておきたい。

 北庄城からほど近い足羽山(現・福井市内)から採れたこの石は凝灰岩で、この岩石種は比較的軽くまた加工しやすいことから石垣、石仏、墓石、庭石などに重宝された。さらに笏谷石の場合はそれだけでなく、雨に濡れると美しい青緑色になることから、イエズス会宣教師のフロイスが「(北庄の)城ならびに他の多数の家々の瓦はことごとく立派な石で作られ、その色により城にいっそうの輝きを添えている」と驚嘆するくらいだった。

 石垣と九層の屋根がすべて蒼い光を放つ北庄城は、ヨーロッパの美麗な建築物を知るフロイスも感銘を受ける秀麗ぶりを発揮したのである。

 勝家は天正9年(1581年)に切石150個を安土の信長に献上している。その中にはこの高級石材も含まれていたのだろう。

安土城天主台入口の笏谷石使用箇所(筆者撮影)

 喜んだ信長は安土城天主の入口に続く石段などの一部にこれを用いた。その石は、今もそこに残っている。

 北庄の城下町は安土の町の2倍の広さだったともフロイスは記録したが、その建物の多くにはこの笏谷石が用いられ、堺が「東洋のベニス」ならこちらは「東洋のサントリーニ島」=青い町、と呼ぶべきか。町の規模は北庄を北陸一、いや、日本一の大都市にするという壮大な構想の現れであり、それには笏谷石をはじめ北陸・東北の物産の京阪への販売だけでなく、南蛮貿易の誘致までも視野に入れた勝家のマネー眼力を形にしたものだったのだ。

 武張った頑固親爺のイメージが強い柴田勝家だが、そんなスケールの小さい男ではなかった。

 ちなみに、笏谷石はすでに採掘を停止終了しているため、一般には流通していない。現在大修復中の越前丸岡城から撤去された笏谷石の石瓦は一乗谷の朝倉遺跡の整備に流用されると聞いている。


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