2026年11月1日(日)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2026年11月1日

恒興がつまずいた岩崎城の値打ち

 では、ここから今回の本題の「小牧・長久手の戦い」周辺のマネー事情について見て行こう。

(大河ドラマ「豊臣兄弟」公式HPより)

 天正12年(1584年)4月9日未明、羽柴兄弟!の生野銀山「シルバー共栄圏」構成員のひとりだった池田恒興ら「三河中入り軍」が徳川方の岩崎城を攻め落とした。面白いことに、この岩崎城のすぐ北西隣りにある竹野山という山は134メートル(m)近い標高のため、西の尾張、東の三河の両方を見下ろせるという地の利の他に、「銘石を産す」と『張州府志』に記録されているように経済価値のある石材の産地でもあった。

 同書には山容が「青黒い」と書かれているから、さてはこちらも勝家の北庄の足羽山の笏谷石と同じ凝灰岩かと思いきや、砂岩・礫岩・粘土の類らしく、特に白い粘土が焼き物の材料に適しており、盛んに掘られては瀬戸などの窯業で活用されたということだ。その売上は、領主である岩崎城の丹羽氏の懐を潤したことだろう。柴田勝家といい、豊臣兄弟!が2年続けて石や土の名産地の領主を敵に回して戦っているのは偶然ながら面白い。

 といっても、丹羽氏の収入源はそれだけではない。南を流れる天白川とは城下の岩崎川でつながっており、伊勢湾から内陸へと物資を運ぶ舟運が盛んだった。天白川の下流には大高城や鳴海城などもあり、桶狭間の戦いの際には逆に内陸からもしきりに兵糧米や軍需物資が川を下って行った。

 そんな重要な土地を支配する丹羽氏。小牧・長久手の戦い当時の当主は氏次で、これは当時徳川家臣として家康に従い出陣中。その弟の氏重が城の守備を任せられていた。

 のち、氏次は織田信雄に転仕して7000石あるいは6000貫文(=1万2000石)を知行したというから、この段階でもかなりの大身だっただろう。信雄は小牧・長久手の戦いでかなりの領地を秀吉に蚕食されたから、家康に仕えた当時はそれよりも多かったかもしれない。ただ、いくら大身でも兵の大半は氏次が引率して出陣してしまったため、城には数百人しか残っていなかった様だ。

 つまり、戦い当時、岩崎城は池田恒興ら三河中入り別動軍にとって無防備な脂の乗りきった肉とも言える状態だった。


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