<これまでのお話>
“意外”にも、子ども時代は家族と花札で遊び、田んぼに囲まれた田園風景を絵に描いたり、日曜になるとお寺へお経を読みに行っていたという細田監督。子供時代の記憶は新作に投影されているようだ。絵画的なアプローチは、画家志望だった黒澤明監督もそうだった、と浜野氏。それに対して・・・
アメリカのアニメーションは、「論理」です
細田 「黒澤監督と共通だ」などと言われたら、すごく冷や汗が出てしまいます。で、思うのですが、アメリカのアニメーションは、実は大変論理的に、緻密に作られています。論理というのは言葉です。その言葉には、グローバルな広がりが生まれる。万人を納得させたり、感動させたりする力がそこから生まれるんだと思います。
ここは、日本人だとかないません。でも、僕自身確かにもともと絵描きになりたくて、大学までほんとに画家になりたかったものですから、それでというわけでもないのですが、日本の作品の場合、やはり論理でない何か。例えばセリフのほかに、入道雲のフォルムが伝える何か――。それを伝えようとしているんだと思いますね。
フォルム、陰影、夕方の、雲間から光が差すその差し方とか。夏の、い草の匂いがしてくるような畳の質感とか。言葉にならない部分を絵に託しているというのか…。
司会 多分日本人って、季節によって移り変わる景色を、ふと立ち止まってはまじまじ見入るということを比較的よくする集団なのですかね。そういう長い感受性の歴史があるから、アニメに描かれる景色が心を揺さぶるものになる、とか…。
浜野 背景とは、背景以上でも以下でもない、っていうのがアメリカなんですね。そればかりか、虫の音なんかは雑音としてしか認識できないっていうでしょう。
でも日本人にとって自分と周りの景色、自分と虫の音は、そうすっぱり切り離せません。「今、この」風景でなくては、ドラマが成り立たない、というところがある。
例えばディズニーの「白雪姫」の背景ね。抽象的にしか思い出せないでしょう、なんだか深い森の中だった、っていう。「ここでなくてはならない」「どこでもないどこか、なんだが、確かにこんなところでないといけない」という、切実な要請をもった場所ではありません。
でも黒澤監督は「雲待ち(ふさわしいフォルムの雲が現れるのを待つこと)」までやった。なぜかと言ったら背景の景色も、そこにいる雲も饒舌なる主役だからです。
細田 「天気待ち」をして絵画的にいい瞬間を狙おうというのはわかりますが、「雲待ち」とは、さすがに黒澤監督の美意識がなせるワザでしょうねえ。太陽の光、雲間からの光の漏れ方。まさにそこに、たくさんの言葉が秘められている。浜野さんがおっしゃる通り、風景も主役なんです。
浜野 黒澤監督はナレーションを嫌いました。言葉で言えば、それは簡単なわけです。「世は乱れ、人心はすさんだ」とかね。それを言葉で言わない。絵で語らせれば十分だからです。これは、やはり絵の修養を積んだ人だから。
描く人と描かれるモノが、対立しない日本
司会 お二人が言われているのは面白い。アメリカだとアニメ映画も「ロゴス(論理)」が柱になる。日本では、景色と自分との間にそれほど明確な一線がない。景色に自分が入り、自分の感情を景色が語ったりする。言ってみれば「主客」、主体と客体の間に対立関係がないわけですね、日本人における認識というのは。浜野さん、フランス人なんかが昔浮世絵を見て驚いたのも、そういう「描く主体」と「描かれる客体」の差異がない作風に対してだったのでしょうか。
浜野 西洋絵画は一点透視法を発明して、こうやったら正確に描けるという科学的技法を編み出した。あれは、一定の練習を積んだらそれなりに描けるようになる方法です。景色を画面に再現する技法として、ですね。
でも浮世絵は、一つの画面の中に、ズームアップする要素と広角にとらえる要素が混じっていたり、まさしく描き手の思い通りにしている。視線はもちろん一点に集まらなくていい。
西洋の絵画は現実の正確な再現を目指し、リアリティーを追い求めたものです。日本の絵は違います。現実を写すのではなくて、画家の認識を描く。だから、向こうの絵は「再現(representation)」、日本の絵は「表現(presentation)」だといわれる。
そこがフランスに影響を与えて、「印象派」を生んだ理由でもあるわけだけど。こういうところは現代のアニメーションにも脈々と伝わっています…。
細田 たしかにモノの眺め方ひとつとっても、そんなふうに向こうとこっちとで差があるわけですから、「時かけ」がどのくらい受け容れられるか不安でした。例えばあの映画では、セミの鳴き声は不可欠ですけど、これはアメリカ人なんかには「何だ、あの雑音は」と言われかねない。でも日本人、僕らにとっては、セミが鳴いているというそのこと、そこに何かよみがえる気持ちがあるし、欠かせない何かがあります。