このため、今回の「4点合意」については、双方が独自の解釈をする余地が残されている。識者の中には、中国が求めていた通りに安倍総理が靖国神社参拝を諦め、日本政府が領有権紛争の存在を認めたと中国に解釈する余地を与えたことは失敗だった、と評価する向きもある。実際、中国のメディアは中国外交の「勝利」を宣伝している。
しかし、日本側は決して何かを譲ったわけではない。たとえば、1985年4月に安倍総理の父、当時の安倍晋太郎外務大臣が尖閣諸島について中国が異なる見解を持っていることを認める答弁をしている。日本の立場は変わっていないのである。
そもそも、どちらが勝ったのかという議論はナンセンスである。安倍総理が前提条件なき対話を中国側に求めていたのは、外交は互いの見解の相違を認め合うことを前提に行うからであり、日中はようやくスタート地点に着いたに過ぎない。とはいえ、安倍総理が主張していた通りに、お互いに立場の違いがあっても対話をするということに中国が同意した事実が重要なのであり、勝ち負けよりも、これから中国とどのような対話をするべきかを問うべきである。
中国国内の権力闘争と
密接に結びついている東シナ海問題
今回、日中は東シナ海に関して双方の見解が異なることを確認したわけだが、中国が尖閣諸島に関する独自の主張を日本に受け入れさせる圧力を止めることはないであろう。互いの見解が異なる以上、今後も東シナ海で不測の事態が起こる可能性は否定できないため、首脳間で危機管理についての対話を再開することが確認されたことは一歩前進である。しかし、日中が危機管理についての協議を始めることに合意したのは第1次安倍内閣の時であり、今回協議再開に合意できたからといってすべてが順調に進むとは限らない。なぜ前回うまくいかなかったかを検証しておく必要がある。
東シナ海をめぐる緊張の始まりは、2008年12月に始めて中国の政府公船が尖閣諸島の領海に侵入してからである。同年6月に日中は東シナ海ガス田の共同開発で合意したが、この合意は中国国内の強硬派の激しい反発を招き、以後当時の胡錦濤指導部は東シナ海問題で強硬な姿勢を取らざるを得なくなった。この時、強硬派を率いて胡錦濤指導部を批判したのが、石油閥のトップであった周永康元共産党中央政治局常務委員であったと考えられている。その背景には、次の国家主席の座をめぐる権力闘争があり、東シナ海問題はいわば中国国内の権力闘争の人質となったのである。