「ふつうの水!」「水道の水!」と子どもたち。
「そうだね、水道の水だね!」
「じつは、井戸水は災害時に使うことはもちろんだけど、ビオトープの田んぼや池の水にも使おうと思って井戸を掘ったんです。でも海を埋め立てた土地のために塩分が少しあり、田んぼの稲やメダカやザリガニなどの生き物がすむ池の水には使えないんだよね。だから今でも有料の水道の水を使っているんだよね」と私。
秋津のまちを育てた人たちを語り継ぐ
この3年生の授業のテーマは、「秋津のまちの歴史を調べよう」です。
丸1年間、このテーマで「総合的な学習の時間」に取り組んでいます。
1学期は学校の開校からの歴史を調べました。
そのうえで2学期は、秋津のまちや住民の歴史を調べるとのこと。そこで、私への依頼になったんです。
私は「『学校の記憶』と『地域の記憶』の響生-学校と地域の交流・連携から学社融合教育へ」のような副題を考えながら、秋津のまち育てを担ってきた人や出来事を映像を交えて話しました。
なかでも子どもたちの興味をひいたのは、この連載4回目に紹介した毎日校庭に通いお花の種をまき咲かせ続けた「お花のおばあちゃん」の近藤ヒサ子さんや、6回目に話した校門前の道路の信号機脇で子どもたちの飛び出しを防ぐためにじゃんけんをしながら登下校を見守り続けた「じゃんけんおじいちゃん」の久我喜代次翁の話でした。
お二人ともすでに他界して10年以上にもなり、地域の記憶が薄れつつあったことから、子どもたちが興味を示したことにとてもうれしくなりました。
秋津のまちを育てた偉大な父と母として、今後も語り続けたいと思いました。
住民が鍵を預かる秋津小コミュニティルーム
ところで、阪神淡路大震災と秋津小学校コミュニティルームの開設には、大きな関連があります。
20年前、習志野市の3月議会の終了直後に、私は教育委員会に呼ばれました。