「早く」との想いは、秋津で推進していた「学社融合」の延長に、さまざまな大人の生涯学習のサークル活動が、学校を拠点にすでに活発におこなわれてきていたからです。
そんな実績が背景にあったからこその、余裕教室の地域開放の要望だったんです。
管理運営の受け皿としては、秋津コミュニティの前身団体がすでに3年前からありました。準備は万端! 発車オ~ラ~イ!
学校・住民・行政みんながWin&Win
このような、学校・住民・行政みんながWin&Winの転用の方法については、すでに文部科学省が1993年に公表した『余裕教室活用指針』(余裕教室の活用を図るさいの計画策定および実施についての基本的考え方や留意点などをとりまとめたもの)を私たちは学び、そのうえで市に要望をしたんです。
市も2年越しで検討し、教育委員会と秋津コミュニティの両者で話し合いながら運営規則を創作し合法的に開放しました。
この、住民に校舎の鍵まで預ける自主管理での開放は、おそらく全国でもはじめてで、当時は画期的な施策だと思います。
もちろん余裕教室の開放は、教育長はじめ生涯学習部長、そして校舎の2階以上にバラバラにあった余裕教室4室を保護者や住民が使いやすいように1階に移して開放を促した石橋征次校長ほかの当時の関係者の大英断で実現したことは間違いありません。
これらの方々の英断には、開設20年目の現在、40にも増えたサークルや団体仲間の笑顔を見るにつけ、今でも感謝をしています。
被災地で感じたコミュニティ
さて、話は変わりますが、3.11東日本大震災直後の2011年4月に、秋津の仲間と私の次男とともにライトバンに紙芝居道具や子どもたちに寄贈する絵本などを積み、被災地励まし行脚に行きました。
その際印象深かったのは、陸前高田市にある華蔵寺(けぞうじ)というお寺に立ち寄った際のことです。
お寺は高台にあり津波の被害はなく、境内には救援の自衛隊が駐屯していました。