2024年11月26日(火)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年8月10日

 入学した翌年、次兄が18歳のときです。母と姉と私が疎開していた長野市に、前橋から次兄が突然訪ねてきました。そして、母の前で手をつき、こう言いました。

 「“天皇陛下ばんざい、皇后陛下ばんざい”と書いた布を胸に、敵艦に突っ込む特攻隊に応募したい」

 母親は頑として許しませんでした。

 そして、1945(昭和20)年の8月15日、終戦を迎えました。まもなく、その次兄がまた長野にやってきて、母にこう言いました。

 「上官たちがみな切腹すると言っている。自分も切腹したい」

 母は驚き、急きょ、群馬県の新治村へ6年生と3年生の児童とともに集団疎開(学童疎開)していた長兄を呼びました。長兄は次兄にこう言いました。

 「そこまで言うなら切腹しろ。ただし、まわりをじっくり見渡して、一番最後に切腹しろ」

 次兄は前橋の士官学校に戻りました。そして、結果としては、30人ほどいた上級士官のうち、陸軍中将が唯一亡くなったそうです。

 ただ、次兄が「切腹したい」と言ったのは、純粋な気持ちからだったと、長兄から聞きました。それぐらい、あの時代は、誰もが軍国主義に染まっていたのです。9歳の私ですら、小さい竹槍をもって、アメリカ軍が上陸してきたら戦おうと思っていたのですから。

 次兄は士官学校で、恩賜賞(賞状と純銀の文鎮)をいただきました。私たち家族(父、母、長兄、姉、私)も前橋まで呼ばれて、みんなの前でお祝いされるほど、誇らしい賞でした。そのためか、終戦後、次兄は防衛大学校の幹部としての勧誘を何回も受けていました。

 しかし、次兄はそのころ、すでに平和主義者に転換していました。その誘いをきっぱり断り、小学校の先生になる道を選びました。

 さきほど、アメリカへの許せない気持ちを書きましたが、ソ連に対しても許せない気持ちを持っていました。

 ソ連は、8月15日に日本が降伏したにもかかわらず、日ソ不可侵条約を破って、満州に攻めてきました。

 私には15歳くらい離れたいとこが2人いました。2人のいとこはどちらも、満州にいました。そして、帰ってくることはありませんでした。

 おそらく南満州で亡くなったか、シベリアに連れていかれて亡くなったのではないか。私の父母たちは、そう話していました。


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