主に日米の比較でロボット研究を捉えたとき、アメリカは知能開発=ソフトウェア開発が中心であったのに対し、日本のそれは人間に似た形=ハードウェア開発が中心であったと言える。どういうことか。
知能と形―ソフトウェアとハードウェア
人類学者の久保明教は著書『ロボットの人類学』において、日米のロボット技術の発展の歴史および、それらが接合する点を模索している。以下では久保の議論を適宜参照しつつ、ロボットとは我々にとってどのような存在であるかを考察したい。
まずはアメリカのロボット研究だ。アメリカにとってロボット研究の原点は、1950年代の人工知能に関する議論から開始される。そこでのロボット研究の焦点は、ロボットというよりも人工知能の開発であった。有名な1956年のダートマス会議において人工知能という言葉がはじめて使用された背景には、人間の知能をコンピュータ上に再現することで人間を知る、という意図が存在した。例えば人工知能の父とも呼ばれるアラン・チューリングがコンピュータの知性を測るために提案した「チューリングテスト」は、人間がコンピュータと知らずにコンピュータプログラムと会話し、会話相手が人間であると感じれば成功である。
チューリングテストからも分かる通り、人工知能やコンピュータに求められたものは、計算能力や機械機能向上という目的もさることながら、人間の知能を知るための、いわば知性研究が前提とされていたと考えられる。無論それは西洋社会のキリスト教をはじめとする一神教の影響を指摘しないわけにはいかない。精神(mind)や知性的な存在として神が創りあげた人間は知性を探求し、形としての人間ではなく、知性や意識をどこまでコンピュータによって再現し、人間理解に役立てるかといったテーマが読み取れる。
こうしてアメリカにおける研究は、知性とは何か?を主題として進められていたということができよう。精神的に自律した知能を重視した研究からは、自ずと自律して思考するロボットといった発想が生じる。故に先のヒト型ロボットの競争では、遠隔操作がきかない場所でこそ、自律型ロボットが活躍することとなったのだ。