人間的な形とは何か
対する日本のロボット研究は1960年代から、産業用を主目的に開始されている。豆を箸でつかむといった繊細な動きをするロボットは、輸出を含めた産業製品として日本の高度成長を下支えするものとなり、1970年代には産業ロボットの生産台数・保有台数もともに世界一となる。
その後、人間型かつ二足歩行をすることで注目されたホンダのアシモや、家庭用ペットとして開発されたソニーのアイボなど、アメリカのロボット(知能研究)と比較した際、研究の着目点は大きく異なる。日本におけるロボットとは、産業・経済的必要性から生じながら、「人間に似た形」の追求を開始し、物理的な観点、換言すればハードウェア研究を重視してきた。
読者にとって、これは納得できるものではなかろうか。日本人にとって馴染みのロボットといえば、まずもって鉄腕アトムであり、あるいはドラえもんといった「ヒト型ロボット」だからだ(ドラえもんはネコ型ロボット、という声もあるが、実質は人間的なロボットである)。アトムは人間にそっくりでありながらロボットであるという非人間的存在である自分に悩む存在だが、我々は生命体ではない「モノ」に生命を投射することから、逆に我々自身を知ろうとしてきた歴史がある。
本質的には、モノにも神や生命が宿るという多神教的な世界観の中で文化を育んできた日本人にとって、ロボットは自分たちを知るのに最適な存在であった。アトム以降、巨大ロボットのマジンガーZやガンダムといったアニメ作品においても、ロボットへの搭乗はロボットを介して自らを知るための存在としてロボットは描かれていた。さらに新世紀エヴァンゲリオンにおいては、ロボット(汎用人型決戦兵器人造人間エヴァンゲリオン)は主人公の母親の魂が埋め込まれていることから、主人公は搭乗したロボットを自己理解を深めるためのツールとして利用している。
ロボットとは何か
こうしたロボットと人間の関係は、近代化する日本が欧米の価値観と対峙する中で独自に発展してきた道でもある。ただし本稿が述べてきたアメリカと日本のロボット研究は、その後両者の密接な関係を通して、形を変えつつ進化している(この点については前述の久保の記述が参考になるが、本稿では割愛する)。
時に日本においては、人間の形と人工知能を組み合わせることで、我々を知ろうという「構成論的アプローチ」と呼ばれる研究が注目を浴びている。タレントのマツコ・デラックスの姿を真似たアンドロイド、通称「マツコロイド」を開発した大阪大学教授でロボット工学者の石黒浩(1964〜)などが好例だ。彼は人間にそっくりのアンドロイドを製作することで、その所作を観察することで人間を知ろうという明確な目的意識を持つ(石黒へのインタビューはWedgeでも行っているhttp://wedge.ismedia.jp/articles/-/822を参照)。
ロボットとは産業やエンターテイメントに期待されるだけの存在ではない。ロボット研究から垣間見える文化的、宗教的な観念。また人間を知るためにこそロボットを製作するという人間による人間理解のための研究でもある。本稿では日米のロボット研究からその発展の歴史を久保の議論を参考に追ったが、稿を改めてさらなるロボットの意味を探求したい。
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