2024年12月12日(木)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2015年12月23日

瀬間仲ノルベルト
(Norberto Semanaka da Rocha)
中日ドラゴンズ
1984年生まれ。ブラジルのサンパウロ州トゥパン出身。父はブラジル人とイタリア人のハーフで、母方の祖父母が沖縄県からの移民。本来は島仲(しまなか)という名字だが、ブラジルの役所がSemanakaと誤って登録。来日時に瀬間仲という漢字を用いることになった。11歳からブラジル代表として活躍。宮崎県の日章学園高校を経て、2002年のドラフト7巡目指名で中日ドラゴンズに入団。05年に戦力外通告を受け、1年間の浪人生活を経て06年に引退。現在は群馬県大泉町にてブラジル料理店「カミナルア」を営む。(写真・小平尚典)

「ブラジルにいる両親が、泣いて喜んでくれた」。そう語る瀬間仲ノルベルトの目も、心なしか赤くなっているように見えた。

 来日して3年。遠くブラジルの地で、擦り切れるほど観た甲子園の映像。その憧れの地でホームランを放ち、中日ドラゴンズからドラフト指名を受けた。地球の反対側からやってきた高校生は、日本で夢を叶えた。

 11歳のとき、野球のブラジル代表として初めて日本にやってきた。そのとき、母国では考えられないほどの野球の人気に圧倒され、いつの日かこの国でプレーすることに憧れを持った。

 14歳、再びブラジル代表として来日した際、瀬間仲の大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)のライトフェンスに突き刺さる打球を見て、宮崎県の日章学園が思わず声をかけた。瀬間仲は夢を叶えるため、15歳で国を離れた。

 「コミュニケーションを取れないことが、苦痛だった」

 今では流暢な日本語も、当時は全く話せなかった。言葉も、食べ物も、生活習慣も、学生文化も違う中で、野球だけが共通言語だったのかもしれない。1年時から試合に出て活躍するも、異国の地で奮闘する瀬間仲に対する周囲の反応は冷ややかだった。

 「外国人、という声は聞こえてきた。言葉は理解できなかったけど、雰囲気がそう言っているのはよく分かった」

 2年時に、寺原隼人(現・福岡ソフトバンクホークス)から3安打を放ち、寺原を観に来たスカウト陣に強烈なインパクトを残した。活躍するほどに、周囲から雑音は消えていったという。3年夏には、夢にまで見た甲子園に出場。弾丸ライナーでライトスタンド中段に突き刺さるホームランは、確実に〝高校生離れ〟していた。

 「この試合、ブラジルから両親が応援に来てくれた。ブラジルでは野球場にこんなに人は入らないから、すごくびっくりしていた」


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