怪我に泣いたプロ野球人生
「高校に入学したときと同じ。全てが最初からのスタートだと思った」
目の前でプレーするプロ野球選手の姿に自然と感情も高ぶった。1年目の途中に招集されたブラジル代表で、キューバなど強豪国と対戦。そこでも結果を残し、着々と力をつけていった。2年目、2軍では一時期、チームトップの打率になるなど、成長著しかったが、怪我をしてしまい、以降は出場機会も激減。3年目は次第に遠征にもついていかなくなった。
「今年までかもしれない」
覚悟はしていた。それでも、次のチャンスを求めて一生懸命練習に取り組んだ。11月に入る頃だろうか。ウォーミングアップを終え、打撃練習に入ろうとしたとき、球団職員に呼ばれ、ナゴヤ球場の一室に案内された。
「来季は戦力としてみていない」
戦力外通告。プロ3年目、ブラジルから来日して6年目。これから何をやればいいのか、頭は真っ白だった。
約1カ月の間、気持ちの整理をつけられずにいた。
「今までは野球しかしてこなかった。もう少し勉強しておけばよかったと後悔もしたが、逆にこれからたくさん学べるチャンスだとも思った」
そうこうしている間に、心配した姉がブラジルから駆けつけ、姉は日本で英語の先生として働くことになった。姉と一緒に暮らしながら、自身も語学学校で、ポルトガル語の講師として活動した。同時に、目の前から突然無くなってしまった野球にも区切りをつけるため、翌年のトライアウトまでは練習することを決意。講師とトレーニングという生活を続けた。
迎えた翌年。本人曰く、「全く通用しなかった」というトライアウトの結果を受け、辞めることを決意。本格的にセカンドキャリアの道に進むことを決めた。
2007年。来日してから8年目の23歳のとき、大きな決断をする。
「群馬県の大泉は、ブラジル人が多く住んでいるらしい」。姉は来日以来ずっと、いつか語学学校をつくりたいと言っていた。姉とともに大泉に引っ越し、学校を開くことを決めた。