「明日、球団事務所に来てくれないか」。受話器を取った竹下浩二は冷静だった。心の準備はできていた。というより、すでに野球への情熱は冷めていた。
「電話の相手も翌日事務所で話した人も誰だったか思い出せない」
眉間にしわを寄せ、必死に思い出そうとするが、最後まで思い出すことはできなかった。1986年、5年間プレーした横浜大洋ホエールズから、戦力外通告を受けた。23歳だった。
竹下浩二(Koji Takeshita)
横浜大洋ホエールズ
1963年生まれ。兵庫県尼崎市出身。中学卒業までまともに野球チームに所属したことがなかったが、スカウトの目にとまったことがきっかけとなり、沖縄県那覇市にある興南高校へ進学。甲子園に3度出場。早稲田実業の荒木大輔とも投げ合った。82年ドラフト4位で横浜大洋ホエールズへ入団。86年に戦力外通告を受けて引退。巨人の打撃投手、毛皮卸問屋、探偵を経て、レストランを経営。(写真:小平尚典)
横浜大洋ホエールズ
1963年生まれ。兵庫県尼崎市出身。中学卒業までまともに野球チームに所属したことがなかったが、スカウトの目にとまったことがきっかけとなり、沖縄県那覇市にある興南高校へ進学。甲子園に3度出場。早稲田実業の荒木大輔とも投げ合った。82年ドラフト4位で横浜大洋ホエールズへ入団。86年に戦力外通告を受けて引退。巨人の打撃投手、毛皮卸問屋、探偵を経て、レストランを経営。(写真:小平尚典)
竹下は中学卒業までまともにチームに所属したことがない。中学校では野球部に入部するも、2カ月で廃部となる。「マンガに出てくるような荒れた学校だった。昔は気合の入ったやつはみんな野球部にいたからね」。
時を同じくして元大洋の選手が、竹下の住む兵庫県尼崎市に少年野球のチームを創設した。竹下はそこで子供達の練習の手伝いをする合間に練習をすることにした。この監督の繋がりで、ある日プロ野球のスカウトが練習を見に来た。そのスカウトが沖縄県那覇市にある興南高校の監督に、「尼崎におもしろい中学生がいる」と伝えた。すぐに理事長と野球部監督が飛んできて、進学が決まった。
入学した78年は、沖縄が日本に返還されてからわずか6年後のこと。言葉は理解できず、食事も口に合わない。不慣れなことだらけであったが、1年夏からエースとして活躍する。その後甲子園の土を三度踏み、当時は、「沖縄県・竹下浩二」とだけ書いたファンレターが届くほど、沖縄では誰もが知る存在だった。
「こんなもんかな、と思った。そこまですごい世界だとは思わなかった」