99年秋、再び電話が鳴った。「来年は契約をしない」。裏方も選手と同じで1年契約。いつクビを切られてもおかしくない。覚悟は常にできていた。36歳にして、無職となる。王監督、藤田監督、長嶋監督の下で13年務めた裏方の仕事に区切りを付け、竹下のセカンドキャリアが始まった。
野球界の先輩の紹介で毛皮の卸問屋に入社した。20歳の女性社員にコピーをお願いされた竹下は、37歳にして初めてコピー機の前に立ったが、呆然と立ち尽くしてしまった。「いや、コピーの取り方が分からないんだ。10分くらいかな。コピー機の前に立ってたんだけど、やっぱり分かんなくて、聞きに行った」。こんな調子なので、はじめは仕事をさせてもらえなかった。「分からないだろうから、席外してて」と業務の話には参加させてもらえないこともあった。
戦力外通告の電話より嫌だった電話
厳しすぎる社風、文化になじめず、2週間で体重が10㌔以上減るときもあった。「売り上げが下がると、幹部から電話がかかってきてね。戦力外の電話なんかより、よっぽど憂鬱だったよ」。体調を崩したこともあり、1年3カ月でこの仕事を辞める。「月に数回の出社でいいから会社に残ってくれ。給料もそのままでいい」。入社後の努力により、営業成績が良かったため、社長に慰留されたが固辞した。
その後、高校の後輩の薦めにより、探偵事務所のフランチャイズオーナーとなる。浮気調査や盗聴器探査、行方不明者捜索などが主な業務内容である。「尾行とか張り込みとかさ、案外気付かれないもんだね。すぐに慣れたんだけど、誰も幸せにならない仕事じゃん。正直、辛かったよね」。
売り上げは順調に伸び、一時は月商300万円ほどにまで伸びたが、同業者の増加とともに仕事も減っていき、今後の行く末に陰りが見えた頃、竹下は心筋梗塞で倒れた。家族は医師から「余命数時間」を宣告された。
奇跡的に快復したが、竹下は探偵を辞めることにした。以前から客として通っていた江ノ島のレストラン「瀬降」のシェフに、横浜で一緒にお店をやらないかという提案を受ける。
横浜スタジアムからほど近い場所に開業したレストラン「瀬降」は、かつての球友、前職で知り合った人々などで賑わった。今年、横浜の「瀬降」はオープンから10年目を迎えた。取材を終えた後、店内で常連客と楽しそうに話す竹下の表情は充実していた。
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