ドラフト4位で大洋に入団した竹下は、プロの世界でも動じなかった。野球部が廃部になる中学時代や、言葉も文化も違う沖縄県での高校時代など、異色のキャリアでプロ入りした竹下には、プロ野球という世界さえ特別ではなかった。1年目を終えた竹下は、精鋭だけで臨む伊東キャンプに最年少で抜擢される。ひときわ目立つ動きを見せ、当時の関根潤三監督の評価を勝ち取った。
迎えた2年目。開幕1軍入りを果たすも、登板機会がないまま2軍落ち。合流初日、試合前練習で足首を捻挫してしまう。捻挫グセのついた足首は、ことあるごとに竹下を悩ませた。
3年目、調子を取り戻すも、1軍で7試合の登板にとどまった。巻き返しをはかる竹下であったが、時を同じくして、目にかけてくれていた関根監督の退任が決まった。
4年目。竹下は危機感を露わに目の色を変えて1月の合同自主トレに臨んだ。周囲からの評価も上々で、今年はやれる、と確信を得ていた。しかし、竹下が1軍キャンプに呼ばれることはなかった。代わって1軍に招集されたのは、竹下のライバルで、1月のトレーニング中に風邪をひいて1週間休んでいた選手であった。
「実力がありゃ勝負できる世界だと思っていたので、精神的にこたえた」
ふと、よく似た話を思い出した。2軍で最多安打を放つなど、活躍した選手が、翌年、自身の使われ方に不満を抱き、一気に腐っていった、という話を。周囲の環境や、様々な事情によって自らの主張が通らないことなど、世の中には往々にして存在する。しかし、当時22歳だった「彼」には理解できようもない。今となっては良い経験であり、財産となったが、当時は納得できなかった。大人になった今、その選手、つまり私はこうして筆を執っている。
話を戻す。情熱を失った竹下の成績は急降下し、翌年、戦力外通告を受けた。建設会社に内定をもらっていたが、巨人から打撃投手として声がかかった。巨人は裏方の仕事であっても、報酬が手厚い。現役時代の最高年俸は約360万円であったが、巨人では最終的にその数倍になるなど、現役時代より年俸が高かった。また、どの球団でも選手は裏方スタッフへの感謝を表現する投資を惜しまない。「広澤克実さんとかはね、『裏方のみんなで食事に行ってきて』と、ポケットマネーを出してくれた。中畑さんや西本さん、篠塚さん、原さん、駒田さん、元木さんなんかも気を遣ってくれた」。