2025年5月23日(金)

大阪 自由都市を支える“民の力”

2025年4月19日

 淀屋橋を南に下り、オフィスビルが立ち並ぶ金融街に入ると、昔の面影をそのままに静かにたたずむ「適塾」(大阪大学医学部前身)がある。そのわずか100メートルほど西には、かつて「懐徳堂」(大阪大学文学部の源流)という町人のための私塾があった。だが、適塾は知っていても、懐徳堂の存在を知る人は少ない。

 「私はすごく不思議でした。財政破綻した仙台藩を再建させた『山片蟠桃』や仏典を歴史的に分析して日本思想史に重要な役割を果たした『富永仲基』など、懐徳堂から素晴らしい功績を残した人たちが、たくさん生まれたのは、なぜだったのかと」

 そう話すのは、京都産業大学名誉教授で現在、大阪市中央区にあるブックカフェ「哲学cafe懐徳堂」を営む宮川康子さん(72歳)だ。宮川さんは、千葉大学で7年間、京産大で20年間、大学教員として日本思想史を研究し、中でも注目したのが懐徳堂だった。

古典を読む会では、伊藤仁斎の『孟子古義』を読んでいるという(WEDGE)

 懐徳堂が生まれたのは、大坂で商人たちが力を持ちはじめた江戸時代中期の1724(享保9)年。五同志と呼ばれる5人の大坂町人たちが、私財を出し合って設立した。

 「江戸時代初期の商人たちは、権力者におもねり特権を得て大金持ちとなり、それを湯水のように使って世間から疎まれていました。江戸時代中期になると、大坂商人たちは『自分たちは社会に必要な存在なのだ。そのために、尊敬してもらえるような新しい商人像をつくらなければ』という気概を持ち始め、懐徳堂が設立されました。ここでは身分を問わず、誰もが自由に学べ、『論語』や『孟子』などを教材にして『人の道』を学んでいたのです」 

『孟子古義』には昔の人が書き込んだ赤い文字が残り、歴史を身近に感じられる(WEDGE)

 人間とは何か、商人としてどう生きるべきか─。「懐徳堂で学んだ大坂商人たちはもうけた分をいかに社会に還元するかという考えが根付いていた」と宮川さんは言う。実際に、大阪に今でも数多く残る橋の大半は、大坂商人たちが架けたものである。

 「享和2(1802)年に淀川が氾濫して周辺に大きな被害が出た時、大坂商人をはじめとして一般の町人たちは我先に救援物資を運んだそうです。山片蟠桃の著書『夢の代』の中には、こんなことは京や江戸ではできないことだ、ということが書かれています」

 懐徳堂は幕末維新の混乱の中、1869(明治2)年に約140年の歴史に幕を閉じた。しかし、その後も大阪では復興を求める声がやまず、1916(大正5)年に大阪市民たちの基金や寄付により「重建懐徳堂」として復興したが、45(昭和20)年の大阪大空襲で木造の講堂は全焼。現在、学舎は残っていないが、懐徳堂の跡地に建った日本生命のビルの壁には記念碑がある。


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