京大変人講座で知られる酒井敏先生(京都大学名誉教授)と、『京大的文化事典』を上梓した杉本恭子さんが導き手となり、京都大学の「アホなことをせぇ」という教えを起点にはじまる「何か」を「京大的教養」と名づけて探求する一冊。
なぜ今、「京大×教養」なのか? 世の中がどんどんキュウクツになるにつれて、世間が求める正しさ、効率性や合理性に疑問を抱く人も増えてきたのではないでしょうか。
*本記事は、『京大的教養 「正しさは伝わらない、楽しさはうつる」』(ウェッジ)から一部抜粋して掲載しています。
そもそも世界はわからないから面白い
「正しさは伝わらない、楽しさはうつる」は、数学者であり京都大学教養部の名物教授だった森毅先生(同大学名誉教授)の言葉として広く知られています。「京大的教養」と銘打つ本をつくるにあたり、教養部のシンボルでもあった森先生への敬意をこめて、この言葉をサブタイトルに掲げることにしました。ちなみに、森先生は受講生が多すぎて教室からあふれてしまったとき、キャンパスの樹の下で講義をしたそうです。しかも、毎回どこの樹で講義がはじまるかわからないので、学生たちは森先生の姿を探して樹から樹へとさまよい歩いていたのだとか——。
教養部は、旧制第三高等学校を前身として生まれた部局。一九五四年から一九九三年まで三八年間にわたり、一、二回生の一般教養教育を担っていました。ただ、教養部で教えられていたのは、世の中の「一般教養」とはちょっと違っていました。大学は「勉強」ではなく「研究」をするところなのだからと、先生たちは「世間の常識では思いつけないアホなことをせぇ」と言い続けました。
本書は、この「アホなことをせぇ」を起点にはじまる「何か」を「京大的教養」と名づけて探求する試みです。導き手は、「京大的アホ」の重要性を世の中に広めるべく「京大変人講座」をはじめた、京都大学名誉教授の酒井敏先生。そして、『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)で、京大の学生文化と大学自治の関係を論じたわたしは、酒井先生と読者のみなさんの仲立ちを務めることになりました。
本書の企画を立てたのは編集者の清水翔起さんでした。『京大変人講座』(三笠書房)と『京大的文化事典』を読んで、「なんて自由なんだろう!」とある種の感動を覚え、「教養部と京大的文化の話をもっと聞きたい」と思ったそうです。
彼は、わたしからは一世代、酒井先生からは二世代下にあたる二〇代(当時)。今の若い人たちは、「こうあるべきという圧」を感じていると言います。たとえば、SNSを開いて「自分よりも圧倒的に優秀な同世代」が発信する情報が目に入ると、「そうではない自分」を責めてしまったり、自己肯定感がしぼんでしまったりする。より効率的にとコスパやタイパを追求しながらも、心のどこかで「本当にこれでいいのか?」とささくれる自分もいる。ところが、「京大的アホ」な人たちは、そんな圧とは別次元にいるように見える。もしかしたら、京大的文化や教養部に自分のモヤモヤを解くヒントがあるのでは——?
たしかに、わたしが知る京大的文化の人たちはコスパやタイパどころか、「なんでそんなことしてるの?」とツッコミたくなることに心血を注いでいました。何をするにせよ、彼らには面白さをドライブさせて突き抜けようとするパワーがありました。「常識」とか「普通」なんて言葉を持ち出そうものなら「常識とは何か」「誰を基準に“普通“なのか」などと、終わらない議論の口がぱっくり開いて呑み込まれたことでしょう。別次元どころかもう異次元です。
さまざまな情報に簡単にアクセスできるようになって、わたしたちは何か大事なものを失ってしまったのではないか——。清水さんの話を聞きながらわたしは考えていました。
インターネット以前、自分がいない場所の出来事をリアルタイムで知るには、テレビやラジオなど限られた手段しかありませんでした。ものごとを深く知りたければ、図書館に行って本を探したり、誰かに教えてもらったり、そのものごとが起きている現場に足を運んだりと、知るために必要な時間と距離が含まれていました。また、人と関係を深めるには、直接会ったり、電話をしたり、ときには手紙を書いたりと、自分の体を使う部分が必ずありました。そして、そのプロセスでは思いもよらない事態が起きるものでもありました。インターネットが普及した頃は、「双方向メディアであることが新しい」と言われましたが、今となってはSNSでさえ「フィードを見ているだけ」という人も多くなっています。スマホを指先でタップして情報を得ることは、本当に便利でしかたないのですが、それと「ものごとを知る」ということはイコールではないような気がします。
失ってしまった「大事なもの」のひとつは、「わからなさ」と戯れる面白さかもしれません。
わからなさは、自らの手足を思いっきり伸ばす余白、あるいは「遊び」です。わからないからこそ、全身で何かを感じようとしたり、恐る恐る触れようとしたりする、その瞬間にこそ「面白さ」がある気がします。自分にしかわからない面白さを追いかけるプロセスで見つけたもの、出会ったものは、たとえ他人からは「ガラクタ」に見えたとしても、決して誰からも奪われることのない宝物です。時間をかけて歩きながら、足裏に接する地面を問うことは、地続きにある世界に対する確かな想像力を広げます。一方で、効率を求めて“無駄”を排除しながら、頭で情報を処理することを「わかる」としてしまうなら、想像力を枯らせてしまうのではないでしょうか。もしかすると、清水さんの言う「圧」は、この「わかる」包囲網によるキュウクツさからくるものかもしれません。
「もうこれ以上、世の中をキュウクツにしてはならない!」。
と、でこぼこ三世代はチームを結成。この世のキュウクツに抗うべく、本書の制作がはじまったのでした。
読者のみなさんに、まずは「京大的」とはなんであるかをイメージしていただきたいので、序章と第一章では京大的文化と教養部をご紹介。清水さんが「なんて自由なんだろう!」と感じた世界観を共有します。第二章では、京大新入生を翻弄したという、教養部の教え「アホなことをせぇ」と「ホッタラカシ」について解説。京大的教養をインストールする地ならしをします。
第三章、第四章では、「なぜ、アホなことが重要なのか」を学問的な視点から論じています。すべてを理解しようと思わなくてよいので、とにかく読んでみてください。「役に立つ」「効率的」という思考を、いったん手放していただきたいのです。最終章は、本書で重ねてきた議論を振り返りながら、それぞれの場所に生きているわたしたち自身に、「京大的教養」をインストールする手がかりを探ります。
一読しただけではスッと頭に入ってこない部分もあると思います。でも、急ぐことはありません。巻末に、本書を書くにあたって参考にした主な文献リストを用意しました。ちょいちょい立ち止まっては、思いのままに寄り道をしてください。この一冊の本が、たくさんの人たちが歩く道になるのであれば、著者としてこれにまさる幸せはありません。
ようこそ、京大的教養の世界へ——!
文・杉本恭子
イラスト:Momoe Narazaki
※本記事は、『京大的教養 「正しさは伝わらない、楽しさはうつる」』の「はじめに」より抜粋して掲載しています。
もくじ
序章 京大的文化と折田先生像
第一章 京大っぽさの原点「教養部」
第二章 アホなことが世界を救う
第三章 カオスでフラクタルな世界のスケールフリーなわたしたち
第四章 役に立つモノを捨ててガラクタを集めよ
第五章 京大的教養は非言語的に現れる
