2026年3月29日(日)

オトナの教養 週末の一冊

2026年3月29日

『住まいの日本史』(吉川弘文館)。 川本重雄。1953年、岐阜県生まれ。1975年、東京大学工学部建築学科卒業。1982年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了(工学博士)。元、京都女子大学学長。  【主要編著書】『類聚雑要抄指図巻』(共編、中央公論美術出版、1998年)、『寝殿造の空間と儀式』(中央公論美術出版、2005年)、『新体系日本史14 生活文化史』(共著、山川出版社、2014年)。

 アメリカの建築史家リーランド・ロスは、「日本の伝統的な住まいには、西洋的な意味の部屋はない」と言った。戦前にドイツの建築家ブルーノ・タウトもほぼ同様の言葉を残している。

 確かに、西洋の部屋は壁・窓・扉で区切られた独立(密閉)空間。内部の生命・安全を守る構造だ。ところが日本では、四周のうち一面以上が壁・窓・扉のない列柱空間。ガラス戸や障子・襖で仕切られているだけで、いつでも外部と一体化できる構造だ。

 これまで日本と西洋の住宅建築の違いは、漠然と「風土の差」と見なされてきた。その昔、吉田兼好が『徒然草』で「家の造りやうは夏をむねとすべし」と記した通り、蒸し熱い夏向きだから開放的なのだ、と。

 しかし、風土説を否定し、日本の民家が今日あるような建築デザインなのは、歴史的に画期があったからだ、と「壁の空間」と「柱の空間」という分類法を使い明らかにした「新しい日本建築史」が、川本重雄さんの『住まいの日本史』(吉川弘文館)である。

―― 川本さんは1997年に日本建築学会大会で、「壁の空間」「柱の空間」という分類法を最初に発表されていますね?

「94年から1年間、ロンドンでレンガ造の4軒長屋(テラスドハウス)に住んで、西洋と日本の住まいの違いを改めて考えるようになったんです。どこがどう違うのかと」

―― それから30年近く経って、本書を今回まとめてみようと思われたのは、どういう理由からですか?

「既存の建築史研究との整合性をとるためですね。戦後の研究では従来、『日本住宅史の研究』(太田博太郎、1984年)のように、歴史に従い徐々に開放的になってきたとされていました。それと、「柱の空間」の出現や引き違い建具の発明など私の考える画期とをどう整合性をもたせて組み合わせるか、歴史をさかのぼって少しづつ検証しなければなりませんから、そこに多大な時間を費やしたわけです」

 縄文・弥生時代の竪穴式住居がそうであるように、日本も奈良時代までは貴族の邸宅や民家は共に「壁の空間」だった。フィレンツェ(イタリア)のシニョーリアには14世紀の「壁の空間」「柱の空間」両方の建物があるが、人が住むのは前者だけで、後者は儀式専用の建物だ。

平安時代に起きた変化

 日本の建物の変化は平安時代に起こった。

 平安宮の大極殿は天皇の即位式などを行う最重要な儀式用建物だが、建物内部と南側の庭に整列する官人との一体感を損なわないために、前面は列柱の並ぶ空間だった。

―― その列柱の空間が「柱の空間」ですか?

「そうです。建物の前面に建具がなく開放されていますから「柱の空間」です。念のため中国史の専門家にも確かめてみましたが、中国でも朝鮮半島でもそうした儀式用の大型建物の前面はすべて扉で開閉する「壁の空間」でした。ということは、列柱が並ぶだけの「柱の空間」は日本独自の工夫と言えますね」

 少し遅れて(川本さんによれば9世紀末)、引き違いの建具(障子、襖など)が発明されて宮中から貴族たちの館へと普及する。

―― 引き違い建具は、当初は清涼殿(天皇の居住域)から始まったのですね?

「清涼殿の母屋の仕切りから、ですね。それまでは御簾(みす)や几帳(きちょう)、屏風(びょうぶ)などで間仕切りをしていたんですが、風や人の動きに弱いしプライバシー面の問題もある。それで、その頃に礎石建ての建物が増え、垂直な柱や水平な敷居を作ることが可能になっていたので、建築技術の向上に伴い貴族の家々にも広まっていったのだと思われます」

 日本独特の引き違い建具は、垂直な柱の間に上下の敷居を設け、取り外しのできる障子や襖をはめ込み、横に滑らせて空間に仕切りを作る。寝殿造の奥向きの空間から、その利用が始まったのだ(『源氏物語』では、途中の「帚木(ははきぎ)」の巻あたりから貴族の寝所に仕切り障子が登場する)。


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