死生学とは、「人間は死すべき存在」を前提にした上での「生」に関する考察。
小谷みどりさんの『〈ひとり死〉時代の死生観「一人称」の死とどう向き合うか』(朝日新聞出版)は、死生学研究30年に及ぶ著者の、集大成とも呼べる一冊である。
序章には、子ども時代に祖父(医師)が末期がんの親戚の傍らで「人間はこうやって死んで行く、よく見ておきなさい」と言ったこと。
学生時代のホームレス調査で「死ぬ前に親の墓参りを」と話した人がいたこと。「青年の船」で訪れたタイで、TVニュースに交通事故の遺体がそのまま映っていたこと。就職した生命保険会社のシンクタンクで、ライフプラン表に「死」の項目がなかったこと、などが並ぶ。
―― これらの体験が、執筆の動機ですか?
「いえ、序章の体験は、死に興味を持ったきっかけの一部ですね。執筆はもちろん編集者に依頼されたからですが、サラッと読める死生学の本って、そういえばありそうでなかったなぁ、と思ったこともあります」
本書の冒頭には、死生観の考察の土台となるさまざまな統計が掲げてある。この数十年で、3世代同居が半数以上から1割以下に減り、80歳以上での死亡が男女とも少数派から多数派に転じた、などである。
変化する「家族」という枠組み
―― ちょっと前までは、葬式は近所の人々が総出で手助けをする地域社会の儀式でした。ところが、地域のつながりが薄れ、大半の人が自宅ではなく病院で死ぬようになると、葬式は葬儀業者任せで身近な家族のみが関わる、とても私的な儀式になってしまった?
「そうです。しかも、3世代同居が激減し、高齢の祖父母とも何十年も離れて暮らしていると、家族葬であっても亡くなった祖父母に親しみがなく、葬式にも出なくなったりします」
驚くのは、親族や親戚との付き合いがなくなったため、「家族」と言う時、自宅で飼っている動物や昆虫は思い浮かんでも、離れて住んでいる祖父母や兄弟は「家族」の枠から除外されたりする、という指摘である。
そうした社会の変化に付随して、「家の墓」も少なくなり、散骨や樹木葬、共同墓や合同墓が増加。墓じまいをする人も増え、世話する人がいなくなった無縁墓も増えてきた。
―― ところで小谷さんの御主人ですが、2011年4月に突然亡くなられた?
「そうです。2人とも42歳の時ですね」
本書によれば、出張予定の夫が起床しないので揺り起こそうとすると、すでに死亡していた。死因がわからず、東京都監察医務院で行政解剖され、自宅に遺体が戻ってきたが、かなり乱暴な遺体処置だった。死因は結局、不明のまま。この体験が強烈で、「死ねば無になる」といっそう強く思うようになった。
―― でも、「どこかで生きているのでは」とも思っている、と書いていますよね?
「あんな突然死だったから、霊魂が天国に行ったなんてとても考えられません。で、どこか知らない所へ長期出張、と考えようとしたんですね。だけど、亡くなってもう10数年、さすがに最近は長期出張などとは思っていません。だから、夫はいなくなった、それだけでいいのではないでしょうか」
人間は突然亡くなる。死ねば(家族や友人、知人の記憶の中では生きるが)無になる。であれば、今日を楽しく生きよう。亡くなった人の分まで、楽しく生きるのだ。そう考えた小谷さんは、講師をするシニア大学の学生たちと、2015年に「没イチの会」を立ち上げた。
「配偶者を亡くすと、女は未亡人、男は男やもめ、などと呼ばれかわいそうがられます。とんでもないですよね。かわいそうなのは亡くなった人、残された私たちはかわいそうでも何でもない。死別した人はもっと前向きにならなくちゃ、そう思ってこの会を創りました」
「没イチの会」では、男性会員たちのファッションショーを開催したり、会員同士でニューヨーク旅行をしたり、会員の家でバーベキューを開いたりとさまざまな活動を展開中だ。1年前か
らは、ひとり暮らし高齢者のためのシニア食堂を開き、無償でラン
