野球に対してスイッチが入った生山の行動は常軌を逸していた。野球本を買いあさり、演劇の講義中は筋トレ、座学では野球の本を読み、食べるものや、寝ることに関しても、すべて「野球が上手くなるかどうか」が基準になっていった。友達に食事に誘われようが、寝る間も惜しんでバッティングセンターで練習に励んだ。
空いている土日を利用しようと、発足直後の社会人野球のクラブチームに1期生として参加。二部の準硬式野球部と掛け持ちで活動することになったが、試合日程が重なるなど支障をきたしたため、クラブチームに活動を一本化する。だが、今度は平日の練習がなくなったため、母校・天王寺高校の野球部で練習することにした。そして、とどまるところを知らない野球への思いが、独立リーグの四国アイランドリーグ受験を決意させた。
「当時21歳。やりたいことはたくさんあったが、プロ野球を目指せるのは今しかないと思った」
周囲の反対をものともせず、生山は挑戦した。迎えたトライアウト当日。50メートル走で斜めに走ったにもかかわらず5秒9というタイムを叩き出し、1次試験に合格。その後のテストもパスし、なんと香川オリーブガイナーズへの入団を勝ち取る。生山は大学を2年で休学することにした。
1年目。3月のオープン戦初戦に代走で出場したが、緊張のあまり帰塁の際に右肘じん帯を部分断裂。1カ月単位でクビになる独立リーグにおいて、ケガは命取り。ひた隠しにしながらのプレーが続いたが、夏にレギュラーを獲得すると、そのまま定着。オフの契約更改では、月額10万円の給料から、3万円のベースアップを勝ち取ったが、この場で「プロ野球の球団がお前のことをチェックしている」と告げられた。生山は、22歳にして初めて、「プロ野球」という夢を持った。
「目立つにはどうしたら良いか。人と違うことをどうやって作り出すか。そればっかり考えていた」
足だけは異様に速かった生山は、攻守交替の際、守備位置まで全力で走った。この全力疾走は、ファンの間でも名物となり、プロ野球のスカウトの目にもとまった。オフに肘を手術し、2年目のシーズンは成績を大きく落としたが、生山は千葉ロッテマリーンズから育成選手として指名を受ける。
「実力や成績から考えると、ありえない。でも、いかに人と違うことをやって目立つかを追求してきた。それで、スカウトの心を動かせたんだと思う」
生山を待っていたのは、厳しいプロの現実だった。毎日結果を出すことを求められ、ファンや地元の仲間たちからの期待を背負い、プレッシャーにさらされる日々へと変わった。あれだけ好きだった野球は、いつしか辛いものへと変わってしまった。顔中に吹き出ものがあらわれ、寮からも一歩も出ず、塞ぎ込んでしまう。ひたすらストレスと向き合いながら、1年目を終えた。必死に練習し、着々と力をつけ、4年目の2012年には2軍で87試合に出場するまでになったが、同年10月7日、戦力外通告を受ける。