類まれな和魂洋才のセンス
明治30年6月26日、秋山真之大尉は「アメリカ国留学被仰付」られます。
この年の留学生5名のうちで一番若い秋山大尉が先輩たちに発破をかけた。
「ワシたちは外国から学ぶだけではなく、それを突破して、外国のエッセンスを自主的に使いこなせるところまで抜けださなければウソでしょう。ワシはアメリカへゆくから、戦略、戦術といった方面で、それをやってみるつもりです」
小泉改革の軍師だった某教授のようにアメリカ理論の鵜呑みではダメです。
秋山大尉はワシントン大使館に着任すると、さっそくニューヨークへ出張して、『海上権力史論』を著して名声の高かったマハン海軍大佐の邸宅の門を叩いています。
翌明治31年に絶好のチャンスが訪れました。米西戦争です。秋山は6月9日、米海軍の「セグランサ号」に乗り組んで観戦にでかけ、8月15日、極秘情報118号『サンチャーゴ・ジュ・クーバ沖海戦』を軍令部へ提出します。
緒論と本論と結語の3部構成で、本論は10章に分かれています。これに戦闘後、自ら乗り込んで調べた統計資料5表を添付しました。さらに「造船に関する6ヶ条」と「造兵器に関する5ヶ条」の提言を忘れていない。まさに空前絶後の名報告でした。
この報告を読んだ比較文学の大家島田謹二博士が驚嘆します。
「これはかれ一流の見方をもって、見るべきを見、解すべきを解し、評すべきを評している文章ではないか。日本の夜は明けた。日本海軍は、このとき、目をぱっちりひらいた。はじめてものを言い出した」
そのすばらしさは博士の『アメリカにおける秋山真之』(朝日新聞社、昭和45年)に詳しく語られています。筆者はロンドン駐在のときに、この著書を発見して、しばし茫然自失しました。当時の筆者は36歳となっていましたが、とてもかなわない。
日清戦争では秋山真之は活躍の機会を得ませんでした。アメリカ留学では絶好の機会にめぐまれました。どんな状況にあっても、秋山真之はうまずたゆまず、いずれ「実施」する日を期して「自啓自発」に努めます。切迫感がありました。
「吾人ノ一生ハ帝国ノ一生ニ比スレバ、万分ノ一ノニモ足ラズト雖モ、吾人一生ノ安キヲ偸メバ、帝国ノ一生危シ」 (天剣漫録10)
この切迫感が平成日本には欠けている。そうに思えてなりません。いかがでしょう。
次回は、この「自啓自発」の努力が海軍大学校での秋山流軍学の講義に、いかに生かされたか。そこを見ましょう。
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