手前味噌という言葉がある。
自分の味噌が自画自賛の意味となるのは、少々、不思議なようにも思われる。が、味噌自体に自慢の意味合いがあるのだとか。
「そこが味噌だ」というように、ポイントというような意味がある。それ自体に趣向、工夫を凝らしたものという意味合い。
その上で、食べ慣れたものこそ一番、そして、食べ慣れたものといえば家庭の味噌ということから、そういう表現となったか。
ところで、味覚を科学的に研究している友人の大学教授に聞いたところでは、慣れ親しんだ美味というものは、本当にあるという。
たとえば、母親が毎朝作る味噌汁を食べ続けることによって、「安心の味」という記号となる。それは特別なものとなる。
とはいえ、美味とはそれだけでない。ヒトは雑食ゆえ、新しい発見の美味にも反応する。慣れていなくても美味しいと思うものもある、ということだ。
そんなややこしいことを考えたのは、手前味噌ではまったくないのに美味しい、新しい発見のような味噌との出会いからだった。
京都の白味噌。
良く出来た、それも、ちょうど良いタイミングのものは一般的な味噌のイメージとは違う。別の調味料。味噌汁も、これで作ると別の料理。
砂糖よりもずっと上品な甘み、旨み。
京都のいくつかの料理屋さんでそれを知り、特に御所近くの「御幸町 関東屋」という味噌の老舗で納得させられた。6代目当主、西田有一郎さんにその魅力を教えられた。
京都の白味噌は、米糀〔こめこうじ〕と大豆に塩、という組み合わせは普通の味噌と同じながら、米糀が大豆よりも多く使われる。発酵も他の味噌よりずっと短い。米糀によって糖化させ、甘みは引き出すが、発酵させすぎない。それ故の、独特の旨み、甘みなのである。
冷蔵、冷凍の技術が発達した今だからこそ、季節限定のものでもなくなったようだが、もともとは冬場だけの短期間のもの。特に宮中などで、砂糖が普及する以前に、好まれていた冬の楽しみだった。それが、徐々に一般にも広まった。京都のお雑煮と言えば、白味噌のそれ、というようになっていった。