押上
北区豊島から隅田川の約10km下流の墨田区押上は、スカイツリーが建設されて、東京の新しい観光拠点となった。江戸開府以前、隅田川が二手に分流していたと思われ、上流から運ばれた土砂が押し上げられた地点だったかと思われる。あるいは、東京湾を襲った津波が、ここまで押し上げられた可能性もありうる。
埼玉県行田市に同じ「押上町」があるが、これは昭和50年(1975年)に設定された新町名で江戸時代の小名「押出」から採ったもの。映画「のぼうの城」で石田三成の水責めが描かれた忍(おし)城自体、乱流していた利根川と荒川に運ばれた土砂が堆積した小平地に築かれた(荒川は寛永6年、1629年の瀬替え工事まで、熊谷扇状地を東流しており、今に残る元荒川の名はその名残である)。
三田
平安前期編纂の『和名抄』国郡郷部には武蔵国荏原(えばら)郡御田郷の名が載るが、現在の港区三田か、目黒区三田のいずれかであろう。各地の古代地名の例からみて、この「御田」は水田のことであろう。
中世以来、芝浦は江戸前(東京湾)の重要な漁港であり、シバエビの名はその地名から出たものという。室町期の「長録江戸図」では高輪の北に二つの島を描き、江戸初期の「慶長図」は古川(渋谷川の下流、新堀川とも)の下流が三角州となって二手に分かれて海に注ぐ。
つまり、港区三田はその三角州の一画で、江戸期には大小の大名家の藩邸(上屋敷・中屋敷・下屋敷)に取り込まれ、南側分流はわずかに入間(いりあい)川などの運河に姿を止めるにすぎなかった。いずれにせよ、「水田」と呼ばれてしかるべき地である。
一方、目黒区の三田は、目黒川左岸の地。目黒川は「巡(めぐ)る川」の意だから、曲流を繰り返してどこで溢水してもおかしくない。現に目黒川は数年に一度、十数年に一度の頻度で氾濫している。
蛇崩(じゃくずれ)川
世田谷区弦巻から上馬・三軒茶屋・下馬を経て目黒区上目黒で目黒川に注ぐ。ほとんどが暗渠化されて遊歩道になっているが、数年、十数年の頻度で溢水している。
この河川名について、「蛇が大暴れして河岸が崩れたようだから」などと説明する向きが多いが、「蛇」の文字は当て字にすぎない。
子犬がふざけていることを「じゃれ合っている」といい、登山家は堅く締まった岩が砕けて崩れやすい場所をザレ場という。
建築資材の砂利とは、岩や石を細かくバラバラに砕いたものである。すなわち、ザレ・ジャリとは堅く締まったもの、堅固な常態が崩れた状態をいう。出雲神話のヤマタオロチとは、弥生時代から始まった鉄(かん)穴(な)流しによる山砂鉄の採取で大量の土砂が排出され川が荒れることを象徴したもの。あるいはこの時代からザレ・ジャレという和語と「蛇」の字音を結び付ける意識があったのか。