いま、なぜ武士道なのか

2010年1月29日

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 すべて、用事のある時以外、よばれないところへは行かないのがよい。また、招かれたなら、これはよい客だ、と思われるようでなければ客ではない。ともかく、その座のようすを前もって考えてから行くことが大切である。酒の席のことは特に重要である。席を立つ潮時というものがある。飽きられもせず、早すぎもせぬようにありたい。また、日常のことで、もてなしなどをあまり遠慮しすぎるのはかえって悪い。1、2度断ってなおも勧められるときは受けるのがよい。ふと行き会って引きとめられた時の心得も、これと同じである。

 人を訪問するにも、これだけの注意深さがあれば、過ちはないだろう。あらかじめ、その話題をも研究して行け、というのだから念が入っている。何事にも徹底を要求する『葉隠』の哲学がにじみ出ている。

 客人の心得、酒席での立ち方などは、どれをとっても現代に通用することである。

 ここまで読んでくると、『葉隠』が単なる武の書であるのではなく、『作法の書』であることがわかるはずである。日本人としての作法の書であることに気がつくはずである。

 テレビを見ていればわかるとおり、現代ほど無作法の時代はないだろう。無作法と無法の総体ということができる。作法とは倫理の体系である。つまり倫理崩壊ということである。夫が妻をなぐり、妻が夫をノコギリで解体し、親が子を捨て、子が親を殺す時代である。赤福が黒福に、白い恋人が黒い恋人に、はたまたハチミツでは中国産を国産に、さぞかしレッテル業者は儲けているにちがいない。張り替えれば倍の量のレッテルが必要だからだ。もったいないという感覚は優良であるが、偽装は不良である。

 武士道とはその国民への作法を説いたものである。『葉隠』はその原典である。1710年とやや古いものであるが、最近では1899年に、新渡戸稲造の『武士道』がある。西欧の騎士道と比較しながらノーブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)を説いたものである。武士は士農工商の社会においては最高の身分である。だからこそ高い道徳性や、規範意識を要求された。修身・斉家・治国・平天下のうち修身・斉家に力点をおくことを武士道は教えた。男らしさ、女らしさ、若者らしさ、老人らしさ、そして武士らしさを説いたのである。

 現代は言葉が氾濫しているせいか、無意味な言葉が多い。「残念」とか、「世間をお騒がせした」などという謝罪がそれである。偽装集団が発する謝罪言語は、ほとんど意味をなしていない。残念とは半分否定半分肯定のナメクジのように気味の悪い、意味あいまいな謝罪である。「お騒がせ」とは、騒ぐ方が悪いのか、騒がせた方が悪いのか、対象を不明にした謝罪のしかたである。つまり、「私」という主語を隠した卑怯な謝罪なのである。

 日本語には主語がないといわれている。それはそれでソフトを重んじる礼法にかなってはいるが、それに便乗して自分の悪を軽減しようという謝罪である。ここでも卑怯がまかりとおっているのだ。こうして共通の規範レベルが低下しているのである。

 『葉隠』の「男は男らしく、女は女らしく」という認識はノーブレス・オブリージュをわかりやすく表現したものである。現代の日本は、男は女らしく、女は男らしくというように、倒錯した風潮が多すぎる。反ノーブレス・オブリージュの連立方程式となっているのだ。そこに武士道の聖典である『葉隠』の登場する必然性がある。お互いに多少でもいいから吸収して、新しい人生のスタートとしたいものである。
 

◆『いま、なぜ武士道なのか―現代に活かす「葉隠」100訓』

 

 

 

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