2024年11月23日(土)

東大教授 浜野保樹のメディア対談録

2010年2月10日

浜野 思うんですけど、日本にいると黒澤さんは常に批判を浴びるわけでしょう。カネにおもねるとまで言われて。
むしろ正当な評価は外国にあると思って、外へ行こう、外へ行こうと無理したのじゃないか。例のハリウッドで作れなかった2作品なんか見ますとね。
ですから『デルス・ウザーラ』で結果が出てなければ、黒澤さん、次がなかったはずなんです。

原 それはほんと、そう思う。だからこの企画を影で応援したヘラルド、すなわち古川社長。ま、 ぼくは現場で担当したわけですが、結構重要な役割を果たしたんだと思うな。
あまり評価を得ていないのだけど、これとそのあとの『乱』と、黒澤さんがピンチのときに応援することができたんだという満足感はありますね。

外から見てわかったクロサワの偉大さ

司会 さっき、ヘラルドは海外と商売していたから黒澤評価がよくわかったとおっしゃいました…。

 そこなんですよ。
外と商売していると、外国の人の鑑賞眼が自分たちの中に入ってくるわけです。黒澤さんを見るときも、国内的な見方を越えた尺度で見ることができた。それはラッキーでしたね。そこは大先輩の、東和映画の川喜多(長政)(3)さんもそう。黒澤さんを応援してましたよね。
洋画の配給で外国と付き合いがあった人は、どこか外の人の目で黒澤さんを評価していたところがあった。

浜野 20世紀が終わるとき、誰が世界を変えたかという特集がいろいろありました。
そのときTIME誌が、20世紀に最も影響力があったアジア人は誰かという記事を載せてます(同誌アジア版1999年8月23、30日合併号)。
映画人では、唯一、黒澤監督だけでしたからね。(次回につづく)

川喜多長政(3)
洋画配給の草分け。妻のかしこと共に、ヨーロッパ映画の輸入業に携わり、陸軍の要請で「中華電影」の実質的な経営者である副社長に就任。『会議は踊る』『望郷』『ランボー』など戦前戦後とも有名作品の配給が多い。


原正人(はら・まさと)
映画プロデューサー。
1931年埼玉県熊谷市生まれ。早稲田大学理工学部建築学科中退。独立プロなどを経て、58年ヘラルド映画入社(61年日本ヘラルド映画に社名変更)。 81年ヘラルド・エースを設立、映画製作に乗り出すと共に、ミニシアターブームの基礎を作る。95年角川書店と提携し、96年エース・ピクチャーズに社名 変更。98年住友商事子会社のアスミックと合併、アスミック・エース エンタテインメントと社名変更、同社長就任。会長、相談役を経て、現在特別顧問。主な 受賞暦に日本アカデミー企画賞、日本映画テレビプロデューサー協会賞、藤本賞、淀川長治賞、日本映画ペンクラブ賞、フランスの芸術文化勲章オフィシェ等。

〈原正人氏 主なプロデュース作品〉


1983年 『戦場のメリークリスマス』 (大島渚)エグゼクティブ・プロデューサー
1987年 『瀬戸内少年野球団』 (篠田正浩)プロデューサー

1985年 『乱』 (黒澤明)プロデューサー
1985年 『銀河鉄道の夜』 (杉井ギザブロー)プロデューサー
1989年 『舞姫』 (篠田正浩)プロデューサー
1995年 『写楽』 (篠田正浩)プロデューサー
1996年 『月とキャベツ』 (篠原哲雄)エグゼクティブ・プロデューサー
1997年 『失楽園』 (森田芳光)プロデューサー
1998年 『リング』 (中田秀夫)エグゼクティブ・プロデューサー
1998年 『らせん』 (飯田譲治)エグゼクティブ・プロデューサー
1998年 『不夜城』 (李志毅 リー・チーガイ)プロデューサー
1999年 『金融腐食列島 呪縛』 (原田眞人)プロデューサー
2000年 『雨あがる』 (小泉尭史)プロデューサー
2002年 『突入せよ!「あさま山荘」事件』 (原田眞人)プロデューサー
2003年 『スパイ・ゾルゲ』 (篠田正浩)エグゼクティブ・スーパバイザー

2008年 『明日への遺言』(小泉尭史)プロデューサー
2010年 『武士の家計簿』(森田芳光)エグゼクティブ・プロデューサー(12月公開予定・現在制作中)

浜野保樹(はまの・やすき)
東京大学大学院新領域創成科学研究科教授。
1951年生まれ。工学博士。コンテンツ産業や制作に関する研究開発に従事する。主な著書に『偽りの民主主義』(角川書店)『模倣される日本』(祥伝社)『表現のビジネス』(東京大学出版会)などがある。現在、『大系 黒澤明』(講談社)全4巻シリーズが刊行中。(財)黒澤明文化振興財団理事、(財)徳間記念アニメーション文化財団評議員、文化庁メディア芸術祭運営委員ほか。

 


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