2024年7月14日(日)

東大教授 浜野保樹のメディア対談録

2010年2月10日

国内の評価はあまりにも冷たかった

司会 日本人は黒澤作品の1つや2つ、皆見たでしょうが、それ以上に、外国へ行って日本人でだれか知ってる人の名前を挙げろと言ったら、「三船敏郎」か「黒澤明」。それ以外となるといきなり「東条英機」になるっていう時代が結構続きました。
戦後、初めて世界に名前を知られた日本人。そこから日本人の多くはプライドをくすぐられたということはなかったでしょうか。

 僕自身は黒澤映画が好きだったし、監督を尊敬していたけど、必ずしもそうでない人もいたんですよね、浜野さん。

浜野 ものすごーく、冷たい目にさらされていた、逆に。

浜野保樹氏

 まず、『羅生門』がヴェネチア国際映画祭で最高の賞を取るまでは、木下恵介監督が社会批判も鋭いということで、いちばん評価が高かった。「キネマ旬報」のランキングでも、木下作品など、社会批評的なものが一番という時期が続いていたんですよ。

 当時の批評を読むと、黒澤映画は興行的に当たったエンタテイメントとして、不当に低く見ている。黒澤作品の原則は、「分かるやつには分かるように、分からないやつにも面白く」ですから。

 つまり面白くてナンボという精神が黒澤映画にはありましたからね。「感傷的」に過ぎるとか、人格を傷つけるようなことを書く批評家さえいたくらいです。とくに『羅生門』で受賞するまでは、ですね。一段低く見る見方が、むしろ主流だったんです。

司会 純文学より「大衆文学」を低く見るといった感じですか。 

外国で賞を取ってもまた批判

浜野 そうです。
ところが外国で賞をとったらとったで、「黒澤は外国人好みのエキゾチズムにおもねりたがる」。だから賞を取るんだ、とね。また批判されてました。足を引っ張ろう、引っ張ろうという感じかな。

原 僕は実は今井正(1912-91年)(2)って、いまの若い人は知らなくなってしまって寂しいんだけど、監督の下についてたことがあるんです。
この今井正って人が、いつもベストテンでは上の方にいたんです。

浜野 あの頃のベストテンていうと、大体今井監督が1位です。

原 『真昼の暗黒』(1956年)、『米』(57)、いい映画が多い。いちばん有名なのは『青い山脈』(49)ですがね。僕は『ここに泉あり』(52)の時の現場に下っ端の制作助手でついていたんですが。

今井正(2)
戦後日本映画を代表する監督の一人。キネマ旬報ベスト・テンの常連で、入選22回、ベスト1位5回を獲得。社会派映画を主に手掛けた。


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