原 ヘラルドって会社がもともと、「アメリカがダメならヨーロッパがあるさ」って考えの会社でしょう。
司会 そうですね。『エマニエル夫人』(1)で大当たりを取られたこともあった…。
原 そう。あのときは20カ月分の賞与をみんなに出せたくらいのね。ユーゴや、ポーランドの映画もやっていましたし。
だから黒澤さんの舞台だって、アメリカがダメならロシアがあるよというのが古川さんの考えであり、ヘラルドの発想だったんです。
それから外国に始終行きますとね、「クロサワはすごい」ってみんな言うわけです。そういう評価の内外格差というのかな、われわれにはよく分かっていましたね。
それと、アメリカがソデにするなら俺たちがやってやろうじゃないかっていう、ソ連の映画人自身にも、ある種の対抗意識があったでしょうね、もしかしたら。
モスクワ流大作路線は行き詰っていた
浜野 思い出してみると、『戦争と平和』は確かにヒットしたのだけど、ソ連流大作主義は必ずしもヒットに結びついていません。モスクワの映画は不首尾に終わる。
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しかも当時の西側は、いろいろロシアものを作るんです。
『007・ロシアより愛をこめて』(1963年)がそうでしたし、大ヒットしたのでは例えば『ドクトル・ジバゴ』(65年、デヴィッド・リーン監督)です。
エンタテインメントとしてヒットするし、実はプロパガンダとしても、ソ連のイメージを非常に悪くするような中身になっているという、そんな映画が出ていたわけです。
とくに『ドクトル・ジバゴ』は、ソ連にとって甚だしいショックだったようですね。賞(アカデミー賞の脚色賞、撮影賞、作曲賞ほか計5部門受賞)は取るわ、興行的に成功もするわで。
だからモスクワの意向としても、世界的なビッグネームを使って違う手法でやらなくてはと思っていた、ちょうどそういう転換期に黒澤さんがモスクワに行ったんだと思います。
司会 しかしいざ始まってみると、相手はみんないわば公務員映画人ですし、筆舌に尽くせぬご苦労があったとか…
『エマニエル夫人』(1)
1974年のフランス映画。同年に日本で公開された。性描写が多いが女性も観られる映画として宣伝され、大ヒット。社会現象となり、シリーズ化された。