連載第2回は原正人さんの回想から。
黒澤明監督は『トラ・トラ・トラ!』『暴走機関車』というハリウッドの企画がどちらも潰れ、
一時失意のどん底に陥る。遂には自殺を試み、日本中の話題にまでなった。
もう巨匠が腕を振るえる場は、広い世界のどこにもないのか…。
そのとき助け舟を出したのが、原さんと、原さんがいた日本ヘラルド映画社の社長、古川勝巳さんだ。
突破口は意外なところ、ソビエト・ロシアのモスクワにあった。
そうしてできたのが、ソ連でのオール・ロケ大作『デルス・ウザーラ』。
これがまずますの首尾を収め、黒澤監督は復活を果たす。
再起の切っ掛けを与えた人たちは、原さんとヘラルドの人々だった。
(司会・構成=谷口智彦・明治大学国際日本学部客員教授)
「デルス・ウザーラ」上映劇場前 黒澤明氏(左より2番目)と原正人氏(左より3番目)
浜野 原さんがお付き合いになったころって、黒澤監督のいちばん苦しい時なんですよね。
原 苦しい時ですよ。それが『デルス・ウザーラ』の切っ掛けにつながるのだけどね。
司会 といいますと。
デルス・ウザーラができたワケ
原 当時『どですかでん』って映画お作りになって。
山本周五郎の『季節のない街』を映画にしたもので、監督が手がけた初めてのカラー作品でした。1970年、ね。