「もったいない」
ネギやセリ、ウドなどと大皿に盛られた、和牛の霜降り肉のような美しいマグロ。極上のトロ。見ると、鍋に入れるのがもったいないと思うに違いない。かくいう私もそう思った。
少しだけでも切り分けてくれないものか。極上の刺身に違いないと思われるものを、何が哀しくて煮なくてはならぬのか。
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大塚駅にほど近い「なべ屋」。東京の日本料理の世界が、京料理に席巻される中で、江戸の味を今に伝える貴重なお店である。
鍋の季節もそろそろお終いかと思ったら、名物のねぎま鍋を思い出した。冬の間は海鮮あれこれの蓬莱鍋かフグちりだが、4月だけ、ねぎまが主役となる。鍋の季節のフィナーレを告げるなべ屋の名物。
それが食べたいと訪ねたのだが、それにしても、あまりにも美しいマグロに、刺身も良かろうにと溜息をついたのだ。
「でも、まあ、生のトロを食べたければ、寿司屋にでもいってもらえばいいから」
主人の福田浩さんはそういって微笑む。
確かに。しっかりとしたカツオだしと合わさって、ちゃんと火が通ったトロの味わいは、発見の美味である。生なら良いというものではないと再確認させてくれる。
そして、何より、ネギが、ウドが、セリが旨い。トロから出た脂と旨みを野菜がすって、特別な味と化している。主役は野菜と言っても、あながち間違いではない。大トロが脇役に回る凄さ。贅沢。その面白さ。
その鍋を食べたあとの汁をご飯にかけ、あえて雑に潰したコショウをふって食べる汁かけ飯がまた美味しい。やはり、大トロは脇役だ。飯を陰で支えている。
今でこそ、刺身と言えばマグロという条件反射であるが、江戸時代はそうではなかった。伊豆、相模方面などで冬場、よくあがったが、青魚のように下魚〔げざかな〕の扱いだった。
「ねぎまの殿様」という落語のネタがある。「目黒のサンマ」と同じように、殿様が下々の食べ物の美味しさに驚くというような噺。このことからも、マグロの地位が分かる。