2024年7月20日(土)

個人美術館ものがたり

2010年5月18日

 そんなことから、川辺に設置された「梁〔やな〕」を思い浮かべる。川の流れの一部をせき止めて簀〔す〕を作り、そこに上がった魚を捕獲する。芸術保護区 の構図としては、そういうものなのだろう。日動画廊の場合はまず仕事からだった。縁あって絵の商いを始めて、そのうちどうしても手放したくないという作品 があらわれ、それが重なって美術館にまでふくらんでいったという。

 日動画廊をはじめたのは長谷川仁〔じん〕・林子〔りんこ〕夫妻で、昭和のはじめのことだ。長谷川仁は明治学院神学部を出て、キリスト教宣教師をしていた。生活は楽ではなく、学生時代の親友の弟から絵を売ることを薦められたのが、そもそもの始まりだという。当初は風呂敷画商で、田園調布やその他の門構えの立派なところに訪問販売したというから、まったくゼロからの出発だ。そのころ日本画というものは売れても、油絵が売れるとは思われていなかった。だから本当に草分けである。

 さいわい長谷川は話がうまかった。教会の牧師時代のたまものだろう。それにその人柄も、非常に楽天的だったようだ。考えてみれば風呂敷画商としての訪問販売は、芸術の布教みたいなものだ。やはりスタートは牧師で正しかった。その人柄もみんなに好まれたようで、銀座の場所も、あなたならというので好意的に借り受けているし、日動という重みのある名前も、どうぞ使って下さいということで話が進む。『へそ人生 画廊一代』(長谷川仁著、読売新聞社発行、1974年刊。現在は絶版)を読むと、その人柄が事業の命運を引き寄せながら進む様子がよくわかる。

長谷川仁
(1897~1976年)

 笠間にある美術館は建物がいくつかに分かれて、それを広い起伏のある庭や回廊などで繋げるという、変化に富んだ構成となっている。これは少しずつ美術館を広げていったことの結果らしい。めぐりめぐって、最初に建てたところはまた全体の構想に合わせて建て直したりしている。大きくは、企画展示館、常設のフランス館、日本館、野外彫刻庭園の四つに分かれる。

 この場所は長谷川家の先祖に由縁の土地だ。先祖はその昔、笠間藩の藩医であったというから、文化の血筋があるのだろう。彫刻庭園はその藩医のころの薬草畑だったそうで、一瞬、薬草茂る中に、いまのブロンズ群の立つ光景が目に浮かんだ。

 まずフランス館。モネ、ドガ、ゴッホ、ルノワール、セザンヌと、ヨーロッパ近代の美味しい小品が並ぶ。ボナール、マチス、ピカソ、ルオー、クレイとつづいて、ウォーホール、サム・フランシスもある。コレクションは、手放したくなかったというものの外に、仕入れたけど売れなかったというものもあるらしい。会場で作品として見る場合は何でもないが、それを買って自分のものにするとなると、やはり不吉なテーマの絵は売れずに残る。それと自画像というのもなかなか売れない。美術館を造ろうという気持には、そういう仕舞い込まれた絵を公開できる、というのも大きな要素としてあったようだ。

フィンセント・ファン・ゴッホ「サン=レミの道」
1889─90年頃 油彩

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