猿渡は「やさしいアイ・ストップ解説書」という冊子をつくって、社員による大掛かりな試乗を展開した。車体、装備、生産といった技術部門だけでなく、総務、営業など事務部門にも呼びかけた。経営陣のなかには、この技術の商品化になお疑問をもつ声があったため、全役員にも休日での試乗モニターになってもらった。アイ・ストップは、一時停車中にブレーキを踏んだ状態でエンジン停止となるが、ブレーキの踏力がどのくらいで作動するかなど微妙な調整が繰り返された。また、交差点での右折時など、エンジンが停止してほしくないケースもある。これについてはハンドルを左右45度以上に切った場合、アイ・ストップが作動しないよう設定した。
アイ・ストップの商品化で学んだこと
全社挙げてのモニタリングにより、急ピッチで違和感や不安感をつぶすことができた。猿渡は、さらに万全を期すため、発売が半年後に迫った09年の1月から主要都市で、一般ユーザーにもモニターを依頼した。その結果、アイ・ストップが作動可能な状態になると緑のランプを点灯させるという装備を追加することにした。エンジンが暖気中の場合などにアイ・ストップは作動しないため、ユーザーからのこの指摘は貴重だった。
猿渡は、入社直後からエンジン開発に没頭し、2度ほど呼吸器系の病気にもかかるほど、猛烈に突っ走るタイプだ。上司からは「周りがついていけない」と、やんわり諭されることも多かった。アイ・ストップの商品化では、全社を巻き込んだように「少し周りが見えるようになった」と笑う。
自身の転機として、猿渡は97年から3年間の米国駐在を挙げる。ミシガン州の開発拠点に着任したのだが、ほどなくこのオフィスの閉鎖が猿渡の任務となった。まだ会話力も不十分な状態で、取引先などとの交渉に忙殺された。思いもしない試練の場となったが、「オープンなコミュニケーションがなければ、ものごとは進まない」など、多くを学んだ。
アイ・ストップの商品化が完了した後、猿渡はそれまでのエンジン開発担当から、ひとつの車両開発すべてをコーディネートする責任者となった。もう、自分だけでどんどん走ることが許される立場にはなく、アイ・ストップでの経験が今後の商品開発にも存分にいかされよう。(敬称略)
メイキング オブ ヒットメーカー 猿渡健一郎(さるわたり・けんいちろう)さん
マツダ プログラム開発推進本部主査
1965年
長崎県生まれ。小学生の時、スーパーカーブーム到来。父親がマツダファンであり、爆音とバックファイヤーを出して走るマツダサバンナRX−3に憧れる。この頃は生真面目で将来の夢は公務員。しかし高校時代に破天荒な性格に開眼、物作りに興味を持ち出す。
1983年(18歳)
九州大学農学部に入学。志望とは異なり浪人も考えたが、農学部の工学系に進む。サイロの研究で、研究室では魚粉まみれに。大学より天神・中州に出没。大学の成果は妻を見つけたこと。
1987年(22歳)
電気設備関係の会社に内定していたが、ロータリーエンジンへの憧れからマツダへ入社。マツダが開発したロータリー以外のほとんどのエンジン・トランスミッション開発に参加。バブル期は数千万の外車を評価で乗り回すことも。
1997年(32歳)
英語が出来ないのに突然の米国赴任命令。赴任直後に、事務所閉鎖という専門外の業務を経験。コミュニケーションと関係者を巻き込むスキルの重要性を痛感、挫折の日々……。
2010年(現在)
2009年5月の異動で車全体をみる主査の職に。車の本質と理想像を追求する日々が続く傍ら、家ではガンダムのプラモデルと向き合う。
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