あえていえば、普天間問題に限らず前首相の政治手法に欠けていたのは、さまざまな事象や可能性を自在に寄せ集めながら編み合わせると共に、必要なら捨て去ることで政治目標に肉薄する迫力である。これは政治家に必要な技巧であるが、誰でも経験から学ぶ他に術がない。他方、歴史的思考力と物事を類比させるのは歴史家の仕事であり、歴史家の常識こそバーリンのいう「現実感覚」なのだ。同時に、現実感覚は政治家のリーダーシップに要求される資質といってもよい。
現実感覚を欠いた二流の歴史家はせいぜい論証や叙述に説得力を欠くにしても、実害を国民に与えることはない。しかし、現実感覚をもたない政治家は、国民を危うくし国を滅ぼす汚名を千載の後まで伝える歴史の悪しき「行為者」になりかねず、実際の歴史にはそうした人物の多くの墓碑銘が刻み込まれている。
不即不離の関係にある「政治と歴史」
歴史家と政治家は、事物の観察スタイルにおいて似通ったところがある。それは、過去と現在の人間のいずれを重視するかの違いがあるにせよ、人間の行為の「観察者」であると同時に自らも「行為者」であることだ。政治家は歴史家にもまして、自然科学のような外的な観察だけでなく、内側から理解する能力がないと務まらない職業なのである。政治家は、時には国民や県民といった歴史の主体の内面に「感情移入」し、かれらが沖縄や日本という世界、かれら自身はもとより日本人やアメリカ人など他の人間をいかに見ているのかを「了解」しなくてはならない。上森亮氏の近業の表現を借りるなら、政治家も歴史家と同じように、この正しい「了解」のためには、動機・目的・意図・欲求・信念などをもつ人間が自然科学の対象とは異なるという洞察力をもつ必要がある。ところが計数工学専攻の鳩山氏のリーダーシップはまったく逆のベクトルで発揮されたのであった。
もし前首相に沖縄や徳之島の歴史を学び住民の独特な心性を学ぶゆとりがあり、現地の人びとと粘り強く付き合い説得していたなら、歴史的思考と現実感覚を磨く多彩な経験を積んでいたに違いない。しかし、そもそも「常識力」が乏しい鳩山氏は、沖縄県民らに不注意かつ無神経な発言を繰り返してしまった。
抑止力の意味を初めて知ったので沖縄県民に改めて負担を願いたいという発言は首相のリーダーシップから出てくる言葉ではない。仮に鳩山氏に直観力や洞察力があるとしても、安保体制につながる普天間問題全体の輪郭を断片的な知識で理解し、単純なひらめきや想像力に結びつけるのは無理があったのだ。
歴史家の手法は、前政権など過去の努力の綿密な検証、経験から得た断片や「知のかけら」を体系的かつ慎重に組み合わせながら、ある仮説や政策への賛否の根拠を獲得することにつながる。辺野古沿岸部への移設を当初否定した前首相の判断は、誰がリーダーでも必ず果たしたはずの経験的な知識やデータの検証を無視して出されたのだから驚くほかない。辺野古がだめならどこが代替地たりうるのかを探るには経験的データが必要となる。
政治家のリーダーシップとは、さまざまな人びとが抱く信念や抱負や希望、歴史的証拠にもとづく理想と現実のバランスのとれた可能性への鋭敏なセンスと結びつくのだ。
結局のところ、政治家のリーダーシップに不可欠なのは、ある政策を実現するときには別のものを捨て去るか脇に置くことで、大目標や本質的目標の達成に近づく能力なのである。歴史家にも要求されるのは、人びとや物事の動機・態度・意図・出来事を順序だてて整理できる能力なのだ。そして、歴史で重要なポイントを無駄なく指し示せる歴史家は、政治をできるだけ複雑にせず問題を紛糾させない政治家にも似ている。