オトナの教養 週末の一冊

2017年6月23日

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本多カツヒロ (ほんだ・かつひろ)

ライター

1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。ブログ:http://golazo-sala.cocolog-nifty.com/pinga/

 ただ紛争や対立が起こるだけではなく、人々がどのくらい自由に越境できる能力をもつかに応じて、グローバリゼーションを異なった現実として経験するということが重要です。影響力のある社会学者であったジグムント・バウマンは、これを「旅行者」「放浪者」というメタファーで表現しました。前者はいわゆるグローバル・エリート、後者は難民などをイメージしてもらえばいいと思います。両者は同じように国境を越えて移動しますが、その経験はまったく異なっている。グローバル・エリートは市場経済の論理に基づいて国境を越えますが、その先でもミドルクラス的生活様式を維持します。事情が変われば、かれらはまた次の国に移ることでしょう。こうして自由自在に移動するかれらにとって、世界はまさに「庭」のようなものです。

 いっぽう、難民も同じように国境を越えますが、それは自分の意思によってではありません。かれらにとって移動は、自由を奪われて「流される」経験に他なりません。これは厳密な意味での難民だけではなく、「〇〇難民」というふうに比喩的に表現されることもある、グローバリズムと新自由主義の台頭によって貧困や不安定な立場に置かれるようになった人々にも当てはまります。かれらは社会階層的、ライフコース的、あるいは人生の意義という意味で、より悪い方向へと自分の意思に反して移動させられます。かれらの経験するグローバリゼーションの現実は、自由に移動する力を比較的持っている人々とは異なっている。

 このようにして、人々がますます異なった現実を経験し、他者の生きる異なる現実への想像力がますます失われていくのが、グローバリゼーションのもたらす分断なのです。などと訳知り顔で言っている私も、トランプ政権の発足やイギリスのEU離脱決定といった出来事を見るにつけ、自分自身もまた、ひとつの分断された現実のなかで生きていることを痛感しました。

――同じ日本に生きている人同士でも、同じことがいえるのでしょうか?

塩原:たとえば、私が慶應義塾大学で開講している授業ではアクティブ・ラーニングの一環として、川崎市の社会教育施設で大学生がボランティアで中学生に勉強を教えます。その学習支援教室に通ってくる子どもたちの家庭は、生活保護を受給している世帯です。いわゆる「貧困の連鎖」に由来する低学力や低い学習意欲・自己肯定感、乏しい将来展望などを改善していこうというのが、この施設が教室を開く目的です。

 現代日本の貧困は見えにくいと言われていますが、確かに外見や持ち物からは、自分たちとそれほど違わないのではないか、と大学生は最初思うようです。しかし何回も教室に通い、中学生たちと親しくなっていくにつれて、かれらの育ってきた家庭環境や現在置かれた状況、そしてかれらにとって「現実的」な将来展望の選択肢の狭さと、自分たちのそれとの違いについて、さまざまな思いを抱くようになります。授業期間が終わっても、そのまま教室に通い続ける大学生もいます。

 いっぽう中学生にとっては、その学習支援教室で会うボランティアの大学生が、周囲にいるほぼ唯一の大学生や大卒者である、という場合も多いようです。社会活動家で法政大学教授の湯浅誠さんが、貧困支援のボランティアの大学生に会って「大学生って本当にいるんだね」と感想を述べた中学生のエピソードを紹介していましたが、同じようなことを言われたり感じたりした、と私に報告してくれる大学生も何人もいました。

 地域の学習支援教室のような場で出会って交流を深めるまで、大学生も中学生も、お互いの生きる現実について想像できない、お互いの存在が視野に入っていない状況があったわけです。グローバリゼーションの進行が格差や不平等の拡大を伴うのであれば、そのような現実の分断が深刻な問題になっていくと予想されます。

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