――PSの開発を可能にしたのもオープンイノベーションだったのでしょうか?
久夛良木:研究者にとってみれば、最先端の技術が世界のどこにあるかは問題ではない。当然PSを開発する際、ソニーグループ内だけですべての技術資源がそろっていたわけではなく、必要な人材と技術は会社の枠を超え「世界のベストプラクティスを結集しようではないか」となった。普段から国内外の学会に足を運び、最新技術に関する発表や論文に敏感だったのも大きかった。
PSの心臓部であるカスタムCPUは米国シリコンバレーの新興半導体ファンダリーLSIロジックから、電源ユニットは、家電部門でソニーの良きライバルだった松下の関連会社である松下寿電子工業(現・パナソニック ヘルスケア)から調達した。
当時、同社の担当者から「なぜ弊社の部品を選んだのか?」と聞かれ、「品質と性能が良かったからです」と答えると、「松下では絶対に自社の製品にソニー製の部品を使うことなどあり得ませんよ」と呆れられた。
坂本:こうした動きは、今でこそ主流となった「ファブレス(工場を持たず、製造は外部委託する製造業)」形態の先駆けのようだ。PSが開発された当時、久夛良木さんに会って言われたことが2つある。まず、PSのことを「ゲームでしょ?」と言ったら「ゲームじゃない!」と怒られたこと(笑)。
もう一つは、専用のプロセッサを「みんなが使えるようにオープンにする」と言われたこと。自社の技術をクローズするのが普通だった日本ではあり得なかった。こうした考え方が標準になっていたら、日本メーカーは今も世界を席巻(せっけん)していたかもしれない。
久夛良木:当時は、日本企業の多くが、自社の技術に過度に自信を持っていた。大量生産によるビジネスモデルが成立していた20世紀はそれで通用していた。しかし、大量に作られるものはいずれコモディティ化し、価格は最も低い水準に落ち着く。これを避けるためにブラックボックス化しても、自社技術の孤立化や相対的な停滞を招きやすい。
坂本:80年代には、すでに大量生産モデルの限界が見えていたが、方向転換がうまくできなかった。大量生産モデルを各総合電機メーカーそれぞれが抱えていたために、集中的な大量投資ができず、次第に世界で競争力を失っていった。自分たちのドメインを明確にし、それ以外の事業は別会社化するなど切り離していくべきだった。