――受賞のニュースが流れたとたんにテレビが真っ暗になった、あの中国国営テレビの映像は衝撃的なものです。徹底した情報統制が敷かれています。
北村教授:共産党は、自身にとって都合の悪い情報が自国民に伝わらないよう、乱暴な情報統制を平気で行う。私が聞いたところでは、テレビが普及する前は、外信からの都合の悪い情報に対して妨害電波を出すために、専門スタッフを養成する学校もあったそうです。しかしこれは、共産党に限ったことではありません。国民党時代にも、南京に東洋で最大の電波塔を建て、都合の悪い外信をチェックして情報統制をしてきました。共産党の中央宣伝部を中心に、新聞から出版物、映画、ラジオ、インターネットまで、すべてのメディアに監視の目を光らせているのです。
最近、知識人に対しては、高圧的な弾圧はしません。しかし、じわじわと、発言の機会や職を奪っていく。劉暁波氏のように、投獄されるケースはまれだと言えます。
「08憲章」には303名が署名していますが、彼らにはやんわりとした注意があったと聞きます。でも拘束はしない。署名者の一人であり、『中央宣伝部を討伐せよ』という本を執筆した焦国標・北京大学助教授(当時)などは、ときに過激に、中国政府を批判していましたが、拘束されたことはありませんでした。しかし、ある日突然、「もう授業をしなくていい」と言われ、大学を休職にさせられた。そして、当局は、彼が公に発言できるような場をすべて奪っていったのです。つまり、言論の機会をすべて抹消して、口を塞ぐ。政府批判をした人間を拘束、逮捕すれば、人権派や国際社会からの非難が高まるでしょう。だから、ただ口を塞いで嫌がらせをするのが、当局のやり口なのです。
僕も関わっていた、日本側と中国側の仲間でつくっていた雑誌があります。政治的なことも扱う雑誌で、一、二度、文化大革命を論じたことがあった。すると途端に中国側の仲間が北京に呼び出されて、「こんな雑誌をつくるのは止めなさい」と当局から注意を受けた。残念ながら、ほどなくして雑誌は休刊になりました。つまり、政府に批判的な知識人の言論が広まらないよう徹底して統制をかけているのです。
――天安門事件以降、中国の民主化運動は低調でした。しかし、「08憲章」が出てきたことから見て取れるように、国内の民主化運動が再び高まっています。
北村教授:天安門事件に先立つ86年には、79年以来の改革開放経済による社会の流動化を背景にして、民主化の主張が科学者の方励之や、文学者の王若望や劉賓雁(作家協会副主席)により提案されました。この三名はいずれも共産党員です。そして彼らの主張を受け、民主化を要求するデモが各地で発生します。しかし、民主派と呼ばれ共産党総書記を務めていた胡耀邦は、その動きを止めることができず、87年には引責辞任をさせられました。天安門事件が起きたのは、その2年後の89年です。ご存知のように、天安門事件弾圧のあと、中国の民主化運動は低調期に入りました。当局による武力弾圧を目の当たりにした人々は、抵抗する気持ちを失い、都市部の知識人たちも、その後の経済発展のお零れに与ることで満足し、運動から離れていったのです。
しかし、この結果、2000年代に入ってからは経済格差の広がりが深まってきました。全国的に社会不安が拡大した結果、知識人による改革運動が再発したのです。劉暁波氏と「08憲章」は、その象徴と言っていいのではないでしょうか。
――中国の歴史を振り返ると、いくつかの大きな思想運動がありました。それでも、民主化につながらなかったのは、なぜだとお考えでしょうか。