走!投!跳!スピードとパワー溢れるダイナミックなハンドボール。ヨーロッパではとても人気の高い競技だが、日本ハンドボール男子は1972年のミュンヘン大会から1988年ソウル大会までのオリンピック4大会に出場(1980年のモスクワ大会は不参加)するも、以降、アジアの壁を突破できず苦闘の歴史を刻み続けている。
しかし、日本ハンドボールリーグ等で見せる選手たちの高い跳躍力から繰り出すジャンプシュートやスカイプレー(空中でパスを受けシュートする)、倒れ込みながらのシュートは、この競技の特筆すべき魅力であり、2020年の東京オリンピックに向けて広く魅力が伝わってくれることを期待したい。
今回は元ハンドボール日本代表キャプテンとして世界に挑み、引退後は早稲田大学大学院でスポーツマネジメントを学び、ビジネスとしてハンドボールのメジャー化に取り組んでいる東俊介の「あの負け」に迫ってみたい。
日本代表落選からキャプテン就任
1990年までは4年に1度、1993年からは2年に1度開催される「世界ハンドボール選手権大会」。2005年1月に開催される世界選手権(チュニジア)に出場する日本代表の最終選考合宿がフランスのパリで行われた。日本代表の候補選手は18名。うち日本代表には16名が選出される。
チュニジアに移動する前夜まで組まれたセレクションマッチではチーム一高得点を挙げ、最高のパフォーマンスを見せることができた。東は自分が当落線上にいることを自覚して合宿に臨んでいたが、自分自身これ以上ないアピールができたと思っていた。
結果発表はチュニジアに出発する日の朝である。発表された直後に日本代表組と落選組は別行動になる。選手にとってはまさに天国と地獄だ。
「自信よりも不安の方が大きかったのですが、セレクションマッチで十分にアピールすることができたのでなんとか生き残れたかなとは思っていたんです」
しかし、不安は隠せず部屋では「大丈夫だといいなぁ」「選ばれているといいなぁ」という言葉を口にしていた。
翌朝、監督の松井幸嗣からロビーに呼び出された。
「監督の表情を見てすぐに結果がわかりました。理由も聞かされ、すまなかったという言葉もあったと思います。でも、監督の顔を見ることもできず、体が熱くなってふわふわしているような、まるでプールの中にでもいるような感覚で監督の声は聞こえていませんでした」
高校日本代表に選ばれて以降、日本代表になることを夢見てここまできた。日本代表になって、世界の強豪国と戦いたい。そう思い続け、その思いがあと一歩、ほんのわずかの差で断ち切られてしまった。