「ショックで涙が出そうになっていたのですが監督の前で泣いてはいけない。とにかく部屋に戻るまでは涙を我慢しようと思っていました。監督だって誰かを切らなきゃいけないんですから、その決断は辛いですよ。だから、せめて監督の前ではショックを受けている姿を見せたくないと思ったのです」
その後行われるメンバーを発表するミーティングには出席しないことになった。それは落選した選手への監督の気遣いだった。
東は試合に出られないばかりか遠征に帯同することもかなわず、チュニジアに向かう日本代表とここで別れ帰国しなければならない。これ以上、チームのために何もすることができない。自分の役割は終わったと思っていた。
「部屋に戻って同室の先輩に落選したことを告げると、どんなに苦しい練習でもいつでも笑っている人がボロボロと泣き出したんです。まるで僕の分まで泣いてくれているくらいに、おいおい声を出して……」
尊敬する、その人が自分のために泣いている。その姿に「俺にはまだやれることがある」と気づいた。それは選手発表のミーティングに出席して日本代表を世界選手権に送り出すことである。
「メンバーが発表されても誰も喜んでいる人はいませんし、出発の準備をしようと言い出す人もいませんでした。これが最後の仕事だと思って、『僕はこの合宿で100%のパフォーマンスを発揮することができたので、悔しくはあっても後悔はありません。選ばれたメンバーは世界の強豪国と対戦するのですから、ここからは気持ちを切り替えて頑張ってください。僕は帰国しますが心からみんなを応援しています』と伝えて送り出しました」
帰国後、大崎電気からは時差ボケを解消し体調を整えるため数日休むよう指示が出たが、東はそれに応えなかった。「落選したのは落選した理由があるからだ。ここで休んでしまったら、その差は開くばかりではないか」と、むしろ以前にも増して積極的に練習に参加した。
東の競技人生にとって2005年の日本代表落選が最大の負けであり、選手として最大のターニングポイントになったと振り返る。
「中東の笛」の洗礼
「2005年はまさにジェットコースターのような年でした。1月に日本代表に落選し、3月には大崎電気の一員として日本ハンドボールリーグで初優勝しているんです。その後、新しい日本代表が選考されたのですが、僕がキャプテンに指名されました」
理由を尋ねると、「おまえは辛い時にチームのことや、仲間のことを1番に考えられる男だから、キャプテンとしてみんなを引っ張って行ってほしい」というものだった。
東を外した、その監督から、日本代表に声が掛かるとは思ってもみなかった。そのうえキャプテンに指名されるとは。若手が台頭するなか、29歳という年齢を鑑みても、日本代表の座を得られるとは想像を超えた展開となった。
さらに、その勢いは止まらず大崎電気はその年の全日本総合ハンドボール選手権で17年ぶりの優勝を遂げた。まさに2005年はどん底にはじまりV字復活を遂げた1年となった。
こうして東は競技人生最大の挫折から立ち直った。