大腸ガンの肺への転移と再手術の告知を受けて、私は深い静寂の中に立っている。身体は過去の大手術の傷跡を留めながら、新たな挑戦へ向かう準備をしている。心は未だに嵐を抱えている。ステージ4大腸がんからの再戦、それは私にとって、闘いというより、永続する問いと化している。
──この局面で、どうすれば平常心を保つことができるのか。
──不安の波を過度に大きくせず、むしろ力に変えることは可能なのか。
「不安」は敵か、先導者か
人は誰しも未知への恐れを抱く。手術前夜、不安感は波紋のように広がる。眠りは浅く、呼吸は乱れ、遠くの景色は霞んで見える。だが私はある考えに至った。不安は敵ではない。むしろ、内なる感性を研ぎ澄ませるサインだ。それは自分自身と深く対話し、問いを明確化するための「静かな灯火」なのだ。不安があるからこそ、人は自らに問いかける。
「私は何を恐れているのか?」
「本当の願いは何なのか?」
この問いへの答えが、平常心という城壁を築く材料になる。
身体は旅の道標であり、心は旅路の舵
この不安を鎮めるために、私は旅に出ることを決めた。旅は単なる逃避ではない。それは再び自分自身と直面するための時間であり、心の地図を更新する作業である。
行き先は京都。
古都の寺社を巡るという単純な計画は、私にとって内面の再構築そのものだ。何百年もの歴史を見守ってきた石畳、静かな庭園、朝の光に溶け込む仏像――それらはすべて、私の心のざわめきに静謐をもたらす。そして私は気づく。
旅は外側の風景を変えるのではなく、自分の内面の風景を変える行為なのだと。京都の寺院の山門をくぐるたび、私は過去の自分と和解し、未来の自分に静かに語りかける。
「私は今、ここにいる」と。
「今、ここに生きる」という力
マインドフルネスという言葉がある。それは「今この瞬間」に注意を向ける心の在り方だ。手術への不安は、未来の出来事に心を奪われることで増幅する。しかし「今、ここ」に意識を戻せば、不安はしだいに力を失っていく。
私は旅先で、朝の静けさの中に座る。冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、数秒止めてからゆっくり吐き出す。この単純な行為が、私の心を整え、思考を平常へと戻す。
「今、ここで生きている」
──それが私の確かな実感となる。
「平常心」は創られる
多くの人は、平常心とは「不安がない状態」だと考える。しかし私は違う。平常心とは「不安を抱えながらも、今この瞬間に立ち、歩き続ける意思」だ。それは恐れを否定せず、むしろ認める勇気だ。
京都での朝、古寺の庭で私はこう考えた。不安は確かにある。しかしそれを「抑え込む」のではなく、「そのまま受け止める」ことが、私の戦い方なのだと。不安は過去と未来を行き来する心の旅人であり、私の歩みを邪魔する存在ではなく、伴走者である。
「旅先」で見つけた静けさ
京都の石畳を歩きながら、私はこれまでの人生を思い返した。商社マンとして世界を駆け、荒野と砂漠を経験し、静かな村の市場でも交渉を重ねた日々。それらすべての瞬間が、ここへと私を導いた。一見、不安と苦難の連続に見える道のりも、実は「私という存在を鍛える旅」だったのだ。旅はやがて身体の疲れを癒し、心に静けさをもたらす。
そして私は気づく。不安は決して消えるものではない。しかしそれを抱きしめて歩けるほど、人は強くなれるのだと。
術前の不安に寄り添いながら
再手術を前にした今、私は完璧な平常心を持っているわけではない。だが、私は恐れを否定しない。
「不安という感情が私に何を教えようとしているのか?」
──この問いを大切にしたい。
そして私は旅先で見つけた答えを胸に、静かに言葉を繰り返す。
「ここにいる。今、ここにいる」
この確信が、私の心を穏やかにし、やがて手術台へと導く。旅路は心の奥底を照らす光である。不安と向き合いながらも、今をしっかり生きること。それは私の新しい平常心の創り方であり、手術という大きな挑戦を受け入れるための準備である。平常心とは、恐れのない静けさではなく、恐れを抱えたまま歩き続けられる「意思」である。
影と共に生きる――京都・妙心寺にて平常心を探す
数週間後に転移した肺がんの手術を控えた今、私の心は静かに、しかし確実に揺れている。これまで幾度も大きな手術を経験してきたとはいえ、再び手術台に向かうという現実は、どれほど理性で整理しようとしても、心の奥底に澱のような不安を残す。
不安は、押さえ込もうとすればするほど、かえって輪郭を強める。私はそのことを、がんという病を通じて嫌というほど学んできた。だからこそ今、私は京都へ向かおうとしている。観光でも、気晴らしでもない。心の姿勢を整えるための、いわば「内面の旅」である。
