日常の再発見――「生きている」という実感
がんを得てから、世界の見え方が変わった。何気ない日々の食事の滋味。孫たちの無邪気な笑顔。庭を抜ける風の、ほんのわずかな温度差。それら一つひとつが、まるで初めて出会うかのように、鮮烈な感動を伴って心に迫ってくる。これは決して感傷ではない。「生きている」という事実が、抽象ではなく、具体的な感覚として立ち上がってくる瞬間である。
長らく私は、効率と成果、勝敗と判断の商いの世界で生きてきた。だが今、価値の物差しは確実に変わりつつある。生きるとは、所有することでも、達成することでもなく、「感じ取ること」なのではないか――そんな思いが、日に日に強くなっている。
妙心寺で語り合いたいこと
だからこそ私は、妙心寺長慶院で、小坂和尚とゆっくり話がしたい。がんをどう捉えるべきか、という結論を求めているわけではない。むしろ、結論の出ない問いを、そのまま自己の軌跡を語り合いたいのである。がんは、無条件に赦される存在ではない。放置すれば、命を奪う冷酷な力を持つ。その現実から目を背けるつもりは、私にはない。
だが同時に、がんは私に問いを突きつけてきた。命は有限であること。人は一人では生きられないこと。そして、自分自身と対話することの大切さ。今の私にとって、がんは単なる「敵」ではない。
内なる影であり、人生を深めるための「試練の師」であり、残された時間を共に歩む「旅の道連れ」のような存在へと、その意味合いを変えつつある。その感覚は、他力本願とも、自己責任論とも異なる。禅的に言えば、「あるがままを引き受け、その上で最善を尽くす」という態度に近いのかもしれない。
平常心とは、悟りではない
平常心とは、悟りの境地ではないことを繰り返したい。不安が消え去ることでも、恐れがなくなることでもない。不安を抱えたままでも、今日一日を丁寧に生きられる状態――それが、今の私が考える平常心である。
京都の静かな境内を歩き、石畳の感触を足裏に確かめながら、私は手術の日を迎える準備をしている。
恐れはある。だが、それ以上に、「ここまで生きてきた」という静かな肯定が、私の中にある。妙心寺での対話は、その肯定をさらに深めてくれるだろう。影と共に生きるという覚悟を、もう一段、腹に落とすために。
そして私は、再び手術台へ向かう。敵を倒すためではなく、自分自身と共に、次の一歩を踏み出すために。
